このブログを検索

2021年8月17日火曜日

バウボの迷宮[Labyrinth der Baubo]

まずラカンの最もベーシックなトーラス円図を掲げよう。



このトーラス円図は種々の変奏がある。例えば左側が$、右側がȺ、真ん中がaとなる、つまり[$ ◊ (a) ◊ Ⱥ]が、現代ラカン派が最も使用するものだ。



これは無意識の主体と斜線を引かれた大他者のあいだには喪われた対象aがあるという形であり、さらに究極の斜線を引かれた大他者は、LȺ Femme、あるいはLȺ Mèreとなる。


とはいえここでは冒頭の最も基本の[男◊ (-φ) ◊女]を使って話を進める。


この男と女のあいだの去勢(-φ)とは、享楽の対象(喪われた対象a)のことである。



享楽は去勢である[la jouissance est la castration. Lacan parle à BruxellesLe 26 Février 1977

私は常に、一義的な仕方で、この対象a (-φ)[去勢]にて示している[cet objet(a)...ce que j'ai pointé toujours, d'une façon univoque, par l'algorithme (-φ). Lacan, S11, 11 mars 1964


われわれは去勢[(-φ)]と呼ばれるものを、 « - J »(斜線を引かれた享楽)の文字にて、通常示す[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ». (Lacan, S15, 10  Janvier  1968


« - J »(斜線を引かれた享楽)とは、享楽の喪失、あるいは喪われた対象(去勢された対象)のことだ。


フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970



この前提で、冒頭のトーラス円図を、悦の迷宮[Labyrinth der Lust]図として使用できる。


ニーチェは、アリアドネもディオニソスも迷宮だと言っている。


ああ、アリアドネ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえない[Oh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus” ](ニーチェ、1887年秋遺稿)

ディオニュソス)私はあなたの迷宮だDionysos: Ich bin dein Labyrinth...](ニーチェ『アリアドネの嘆き』Klage der Ariadne1887年秋)



したがってこう置ける。



これが悦の迷宮、あるいは永遠回帰図だ。先ほども示したように究極的には左側に無意識の主体(男女も含めた主体)が来て右側にはLȺ Femmeが来るということはあるが、ラカンのトーラス円図とは、この二つが二重に重なっているのである。





そして、「なんでもバウボ」(さらには「不気味な実存の永遠の砂時計」を参照)で示したように、悦の核にあるのが、バウボ[Baubo]であり、これが究極の悦(Lust)の対象だ。したがって、悦の迷宮[Labyrinth der Lust]=バウボの迷宮Labyrinth der Baubo]となる。


悦の対象(享楽の対象)とは喪われた対象aーー出生とともに去勢された対象ーーのことである。


享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

喪われ対象aの形態永遠に喪われている対象の周りを循環すること自体が対象aの起源である[la forme de la fonction de l'objet perdu (a), …l'origine…il est à contourner cet objet éternellement manquant. ](Lacan, S11, 13 Mai 1964

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](ラカン、S1120 Mai 1964


胎盤、つまり母胎、これがバウボだ。





この享楽の対象、この喪われた悦の対象の周りを循環運動することが、何よりもまず永遠回帰である。


ニーチェのLust、フロイトのLust、これこそニーチェの悦なのである。


我々は、フロイトが Lust と呼んだものを享楽と翻訳する[ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance. (J.-A. Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)


これは決定的だよ、まがいようがない。


悦が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ[Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.]〔・・・〕すべての悦は永遠を欲する[alle Lust will - Ewigkeit! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第91885年)

完全になったもの、熟したものは、みなーー死を欲する[Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第9節、1885年)


ーー《死への道は、悦と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance]》 (Lacan, S17, 26 Novembre 1969)


悦が欲しないものがあろうか。悦は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。悦のなかに環の意志が円環している。――- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年)

すべての悦は永遠を欲する、ーー深い、深い永遠を欲する!

alle Lust will Ewigkeit »will tiefe, tiefe Ewigkeit!«](ニーチェ 『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第12節、1885年)


ディオニュソス的密儀においてのみ、古代ギリシア人の本能の全根源的事実は表現された。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか永遠の生であり、生の永遠回帰である[Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens]。生殖において約束され清められた未来である[die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht]。死の彼岸の生[Leben über Tod ]、流転の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である。


spricht sich erst in den dionysischen Mysterien der ganze Untergrund des hellenischen Instinkts aus. Denn was verbürgte sich der Hellene mit diesen Mysterien? Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens, die Zukunft in der Zeugung verheißen und geweiht, das triumphirende Jasagen zum Leben über Tod und Wandel hinaus, (ニーチェ「力への意志」遺稿、1888



さて十全におわかりになったことだろう。少なくともそう期待する。何度か遠回しには示してきた話だが、ここではトーラス円図を使って具体的に提示したのである。ニブイ方用にさらにこうも示しておこう。




ああ、Lucio Fontanaの美! 彼は終生あの割れ目を製作し続けた。彼は永遠回帰の本質を知っていた。




アリアドネの糸は、あの割れ目から漏れ出るのである。


レミ・ベロー曰くの「緋色の筋のまわりにひろがる繊細な苔におおわれた丘」、暁方ミセイ曰くの「蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、/五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子」、そう、あのしっとり濡れた永遠の泉から蜘蛛の糸があなたをーー男女ともであるーー誘うのである・・・


ああ、せつなや! 時間はどこへ行ってしまったのか。わたしは深い泉のなかへ沈んでしまったのではなかろうか。世界は眠るーーWehe mir! Wo ist die Zeit hin? Sank ich nicht in tiefe Brunnen? Die Welt schläft -〔・・・〕


わたしは既に死んだ。事はおわった。蜘蛛よ、なぜおまえはわたしを糸でからむのか。血が欲しいのか。ああ! ああ! 露が降りてくる。時がせまる。Nun starb ich schon. Es ist dahin. Spinne, was spinnst du um mich? Willst du Blut? Ach! Ach! der Thau fällt, die Stunde kommt -  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第4節、1885年)