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2021年8月14日土曜日

なんでもバウボ[Baubo]

 


ヴェールが引き剥がされても真理がなお真理であり続けるという事を、我々は最早信じない。Wir glauben nicht mehr daran, dass Wahrheit noch Wahrheit bleibt, wenn man ihr die Schleier abzieht; 〔・・・〕

今日我々にとっては、全てを裸の[nackt]状態で見ようとしない事、全てのものの許に居合わせようとしない事、全てのものを理解し知ろうとしない事は、慎み[die Schicklichkeit]に適った事と見なされる。

Heute gilt es uns als eine Sache der Schicklichkeit, dass man nicht Alles nackt sehn, nicht bei Allem dabei sein, nicht Alles verstehn und „wissen“ wolle. 


「神様があらゆる所に居るって本当?」と小さな少女が母親に尋ねた。「でもそれは無作法な事だと思うわ」哲学者にとってはヒントだ!

 „Ist es wahr, dass der liebe Gott überall zugegen ist?“ fragte ein kleines Mädchen seine Mutter: „aber ich finde das unanständig“ — ein Wink für Philosophen! 


自然が謎と色とりどりの不確実性の背後に身を隠した時の蓋恥は、もっと尊重した方が良い。恐らく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女ではないか?恐らくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?


Man sollte die Scham besser in Ehren halten, mit der sich die Natur hinter Räthsel und bunte Ungewissheiten versteckt hat. Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... (ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年)





BauboOxford Classical Dictionary, as “A primitive and obscene female demon [...] originally a personification of the female genitals”.



真理はバウボ[Baubo]じゃないかね。


真理は女である[die wahrheit ein weib](ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886)


アリアドネだってバウボ[Baubo]だよ、たぶん。


迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿, 1882-1883






わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを[ was Ariadne ist!]……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。(ニーチェ『この人を見よ』1888年)


『エスの本 Das Buch vom Es』(1923)を記したゲオルク・グロデックは、「アリアドネが何であるか was Ariadne ist!」は、当初は Wer Ariadne ist(アリアドネは誰であるか)」であったが、最終的に「was Ariadne ist! (アリアドネは何であるか)」に変えられていることをニーチェ 自筆原稿に当たって示している。


要するに究極の迷宮はバウボさ。


迷宮へと予定されている運命[die Vorherbestimmung zum Labyrinth](ニーチェ「反キリスト」序言、1888年)

ああ、アリアドネよ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえないOh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus ...](ニーチェ、1887年秋遺稿)


海だってバウボだよ、きっと。


ニーチェの瞑想にとって海の波の風景が重要であったことを思いだしてもいいだろう。on se rappelle, en passant, l'importance du spectacle des vagues de la mer pour la contemplation nietzschéenne (クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

意志と波 Wille und Welle……


私はお前を知っている、お前の秘密を知っている。お前の起源を知っている! お前と私は実にひとつの起源から生まれたのだ! お前と私は実に同じ秘密をもっている!


ich kenne euch und euer Geheimniss, ich kenne euer Geschlecht! Ihr und ich, wir sind ja aus Einem Geschlecht! — Ihr und ich, wir haben ja Ein Geheimniss! (ニーチェ『悦ばしき知』第310番、1882年)


なんでもバウボさ。


バウボは、死の彼岸にある永遠の悦の性的象徴だね


ディオニュソス的密儀のうちで、ディオニュソス的状態の心理のうちではじめて、古代ギリシア的本能の根本事実はーーその「生への意志[Wille zum Leben]」

は、おのれをつつまず語る。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか永遠の生であり、生の永遠回帰である「Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens]。過去において約束され清められた未来である。死の彼岸[über Tod]、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である。生殖[die Zeugung]による、性の密儀[die Mysterien der Geschlechtlichkeit.]による総体的永生としての真の生である。


このゆえにギリシア人にとっては性的象徴[das geschlechtliche Symbol]は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。密儀の教えのうちでは苦痛が神聖に語られている。すなわち、「産婦の陣痛[Wehen der Gebärerin]が苦痛一般を神聖化し――、一切の生成と生長、一切の未来を保証するものが苦痛の条件となっている・・・


創造の永遠の悦 die ewige Lust des Schaffens があるためには、生への意志がおのれを永遠にみずから肯定するためには、永遠に「産婦の陣痛」もまたなければならない・・・これら一切をディオニュソスという言葉が意味する。すなわち、私は、ディオニュソス祭のそれというこのギリシア的象徴法以外に高次な象徴法を知らないのである。そのうちでは、生の最も深い本能が、生の未来への、生の永遠性への本能が、宗教的に感じとられている、


――生への道そのものが、生殖が、聖なる道として感じとられている・・・[In ihnen ist der tiefste Instinkt des Lebens, der zur Zukunft des Lebens, zur Ewigkeit des Lebens, religiös empfunden, -der Weg selbst zum Leben, die Zeugung, als der heilige Weg.](ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第4節『偶像の黄昏』1888年)




究極の悦の対象ってのは、フロイトラカン的にもバウボだからな


悦の対象としてのモノそれは快原理の彼岸の水準にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…Au-delà du principe du plaisir …cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère, (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  (ラカン、S1120 Mai 1964


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger,](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919)


アッタリマエのことさ、なんでもバウボってのは。


科学や知において、欲動は聖なるものとなる。すなわち「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。知を備えた人間は、聖性において自らをはるかに超える。In der Wissenschaft, im Erkennen sind die Triebe heilig geworden: "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht". Der erkennende Mensch ist in der Heiligkeit weit über sich hinaus. (ニーチェ「力への意志」遺稿第223番、1882 - Frühjahr 1887


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、1939)





問いはむしろ殆どの人はなぜこのバウボの真理にいまだ知らんぷりしてるのかだな。

別の言い方なら人はなぜ賎民のまま居続けたいのか、なぜ衛生学ばかりに耽っているのかだ。


宗教は賎民の関心事である[Religionen sind Pöbel-Affairen](ニーチェ『この人を見よ』1888年)

生は悦の泉である。が、どんな泉も、賎民が来て口をつけると、毒にけがされてしまう。Das Leben ist ein Born der Lust; aber wo das Gesindel mit trinkt, da sind alle Brunnen vergiftet. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「賎民 Vom Gesindel1884 年)

宗教は衛生学と呼んだほうがよい”Religion”, die man besser als eine Hygiene bezeichnen dürfte, (ニーチェ『この人を見よ』)


賎民であることにたえられなかったひどく聡明な芥川は、死の直前こう言っている。


ニイチエは宗教を「衛生学」と呼んだ。それは宗教ばかりではない。道徳や経済も「衛生学」である。それ等は我々におのづから死ぬまで健康を保たせるであらう。(芥川龍之介「西方の人」昭和二年七月十日)


これはフロイトの言っていることとほとんど等価だ。


宗教的観念は、文化の他のあらゆる所産と同一の要求――つまり、自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要――から生まれた。daß die religiösen Vorstellungen aus demselben Bereich hervorgegangen sind wie alle anderen Errungenschaften der Kultur, aus der Notwendigkeit, sich gegen die erdrückende Übermacht der Natur zu verteidigen.(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』第4章、1927年)


自然とは究極的には、沈黙の死の女神[schweigsame Todesgöttin 、つまりバウボのことであり、その防衛としての一神教的宗教や文化とはエディプス的父、父の名のことだ。


ラカンは父の名を終焉させた[le Nom-du-Père, c'est pour y mettre fin. ]〔・・・〕つまり大他者は見せかけに過ぎない[l'Autre n'est qu'un semblant(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96

ラカンが、フロイトのエディプスの形式化から抽出した「父の名」自体、見せかけに位置づけられる。Le Nom-du-Père que Lacan avait extrait de sa formalisation de l'Œdipe freudien est lui-même situé comme semblant(ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019


もっとも見せかけ(仮象・嘘)にまったく耽らず、バウボの深淵に直面したら、パックリやられて死んじまうということはあるんだが、あまりにも素朴な嘘が多いよ。


おお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか?[- wann, Brunnen der Ewigkeit! du heiterer schauerlicher Mittags-Abgrund! wann trinkst du meine Seele in dich zurück?" ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「正午 Mittags1885年)

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。 Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein(ニーチェ『善悪の彼岸』146節、1886年)


『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE]》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif ]そのものがあるすべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[le gouffre et la béance de la bouche]、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer] …(ラカン、S2, 16 Mars 1955



ニーチェはメデューサの首に公には触れなかったが、ちゃんとノートにあるんだ。これがバウボに決まっている・・・


ツァラトゥストラノート:メドゥーサの首としての偉大の思想。すべての世界の特質は硬化する。凍りついた死の苦悶[In Zarathustra 4: der große Gedanke als Medusenhaupt: alle Züge der Welt werden starr, ein gefrorener Todeskampf](ニーチェ遺稿.Winter 1884 ― 85