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2021年8月10日火曜日

大洋的感情[ozeanischen Gefühls]/寄る辺なさ「Hilflosigkeit]


ここでは宗教的観念の起源をめぐっているフロイトの『文化の中の居心地の悪さ』の冒頭部分を主に引用するが、先にラカンによるその箇所の簡潔な注釈と注釈としてのトーラス円図を掲げておく。


不快の審級にあるものは、非自我、自我の否定として刻印されている。非自我は異者としての身体、異物として識別される[c'est ainsi que ce qui est de l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, comme négation du moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt : (Lacan, S11, 17 Juin  1964)





ここに快自我と不快の領野が構成される。すなわち、残滓としての対象、異者としての対象である[Ici se constitue le Lust-Ich et le champ de l'Unlust :  l'objet comme reste, l'objet comme …étranger,   (Lacan, S11, 20  Mai  1964)



この異者(異者としての身体)は、リアルな対象a(喪われた対象)であり、不気味なものでもある。


異者としての身体問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974

現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004



………………………



さて始める。



宗教的教理はすべてイリュージョンであり、証明不可能で、何人もそれを真理だと思ったり信じたりするように強制されてはならない[den religiösen Lehren, …Sie sind sämtlich Illusionen, unbeweisbar. Niemand darf ge-zwungen werden, sie für wahr zu halten, an sie zu glauben..](フロイト『ある錯覚の未来Die Zukunft einer Illusion』第6章、1927年)


宗教を錯覚(イリュージョン)[die Religion als Illusion]だと断定した私の小論(『ある錯覚の未来』)をすぐれた友人のひとり(ロマン・ロラン)に送ったところ、彼は返事の中で、「自分は宗教についてのあなたの判断にまったく賛成である。しかし、あなたが宗教のそもそもの源泉[eigentliche Quelle der Religiosität ]を十分評価していないのが残念だ。それは一種独特の感情で、つねづね一瞬たりとも自分を離れず、ほかの多くの人々も自身がその種の感情を持っていることをはっきり述べているし、また無数の人々についても事情は同じと考えてよいものだ。それは、「永遠」の感情[Empfindung der »Ewigkeit« ]と呼びたいようななにかしら無辺際・無制限なもの、 いわば 「大洋的」な感情[ein Gefühl wie von etwas Unbegrenztem, Schrankenlosem, gleichsam »Ozeanischem«]である。この感情は、純粋な主観的事実で、信仰上の教義などではない。この感情は、死後の存続の約束などとは無関係であるが、宗教的エネルギーの源泉であり、さまざまの教会や宗教体系によって捕捉され、一定の水路に導かれ、じじつたしかに消費されてもいる。たとえすべての信仰、すべてのイリュージョンは拒否する人間でも、こうした大洋的な感情[ozeanischen Gefühls]を持ってさえおれば、自分を宗教的な人間だと称してさしつかえない」と書いてきた。


イリュージョンの持つ魔力をかつてみずからもその作品の中で高く評価したことのある尊敬すべき友人のこの言葉に、私は少なからずとまどってしまった。私自身のどこをどう探してもこの「大洋的な」感情は見つからない[Ich selbst kann dies »ozeanische« Gefühl nicht in mir entdecken]。〔・・・〕

病理学によれば、自我と外界の境界が不明確になったり、その境界線が本当に間違って引かれてしまうような状態は非常に多い。すなわち、自己身体の各部[Teile des eigenen Körpers]、いやそれどころか、自分の心的生活・知覚・考え・感情などまでを自分のものではない異者[fremdのようなものだと思いこむ患者もあれば、反対に、明らかに自分の内部で起こったことであり、当然自分が責任を取らなければならないことを外界の責任にしてしまう患者もあるのだ。つまり、自我感情[Ichgefühl]も阻害されることがあり、自我の境界[Ichgrenzen]は不変ではない。


さらに考察を進めると、普通の大人が持っているこの自我感情なるものは、はじめからいまの形のものだったはずはないと言える。そこにも発展があったはずで、この発展の経路は、むろん証明は不可能であるが、かなり確実に再構成することができる。


乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感情の源泉としての外界を区別しておらず、この区別を、さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、自分を興奮させる源泉のうちのある種のものはーーそれが自己身体器官[seine Körperorgane ]に他ならないということが分かるのはもっとあとのことであるーーいつでも自分に感情を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母の乳房[Mutterbrust――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にとって「対象」Objektが、自我の「そと」außerhalbにあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。


感覚総体からの自我の分離[Loslösung des Ichs ――すなわち「非我」Draußen や外界の承認――をさらに促進するのは、絶対の支配権を持つ快原理が除去し回避するよう命じている、頻繁で、多様で、不可避な、苦痛感と不快感[Schmerz- und Unlustempfindungen]である。こうして自我の中に、このような不快の源泉となりうるものはすべて自我から分離して自我のそとに放り出し[vom Ich abzusondern, es nach außen zu werfen]、自我の異者[fremdesで自我を脅かす非我[Draußen]と対立する純粋快自我[reines Lust-Ich]を形成しようとする[ein reines Lust-Ich zu bilden, dem ein fremdes, drohendes Draußen gegenübersteht.]。


この原始的な快自我[primitiven Lust-Ichs]の境界線は、その後の経験による修正を免れることはできない。なぜなら、自分に快を与えてくれるという理由で自我としては手離したくないものの一部は自我でなくて客体(対象)であるし、自我から追放したいと思われる苦痛の中にも、その原因が自我にあり、自我から引き離すことができないと分かるものがあるからである。われわれは、感覚活動の意識的な統制と適当な筋肉運動によって、自我に所属する内的なものと外界に由来する外的なものを区別することを学び、それによって、今後の発展を支配することになる現実原理[Realitätsprinzips]設定への第一歩を踏みだす。この区別はむろん、現実のーーないしは予想されるーー不快感から身を守るという実際的な目的を持っている。自分の内部に由来するある種の不快な興奮を防ぐために自我が用いる手段が、外からの不快を避けるために用いるのと同じものだという事実は、のち、さまざまの重大な病因的障害の出発点になる。


自我が外界とのあいだに境界線を置くようになる過程は以上のようである。もっと正確に言えば、原初はは一切を含んでいた自我[Ursprünglich enthält das Ich alles]が、あとになって、外界を自分の中から分離するのである[später scheidet es eine Außenwelt von sich ab]。したがって、今日われわれが持っている自我感情は、自我と外界の結びつきが今よりも密接であった当時にはふさわしかったはるかに包括的なーーいや、一切を包括していた感情[eines allumfassenden Gefühls]がしぼんだ残りにすぎない。多くの人々の心にこの原自我感情[primäre Ichgefühl]がーー多かれ少なかれーー残っているものと考えてさしつかえなければ、この感情は、それよりも狭くかつ明確な境界線を持った成熟期の自我感情と一種の対立をなしながらこれと並んで存続するだろうし、またこの感情にふさわしい観念内容とは、無限とか一切のものと結びついているとかいう、まさに私の友人(ロマン・ロラン)が「大洋的な」感情[»ozeanische« Gefühl ]の説明に用いたのと同じ観念内容であろう。〔・・・〕

(とはいえ)大洋的感情の役割は、無制限なナルシシズムの復活を目指しているかもしれないが[Damit ist die Rolle des ozeanischen Gefühls, das etwa die Wiederherstellung des uneingeschränkten Narzißmus anstreben könnte]、(精神分析的には)前景からいったん押しのけられる。われわれが明確な線を辿って追求できることは、幼児の寄る辺なさという感情までが宗教的感情の起源である[Bis zum Gefühl der kindlichen Hilflosigkeit kann man den Ursprung der religiösen Einstellung in klaren Umrissen verfolgen](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)




まずここでのふたつのキーワードとして、異者[fremd]と寄る辺なさ[Hilflosigkeit]を取り出そう。このふたつの用語はどちらもトラウマを示している。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 (異者としての身体[Fremdkörper )のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

経験された寄る辺なき状況をトラウマ的状況と呼ぶ eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische](フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)


異者については、ロマン・ロラン70歳の誕生祝いの書簡でも繰り返している。


疎外(異者分離 Entfremdungen)は注目すべき現象です。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察されます。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかです。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, […] Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)


他方、寄る辺なさ[Hilflosigkeit]とは「無力さ」とも訳される語だが、ある時期以降のフロイトの論に頻出する(異物[Fremdkörper]概念は最初期から最晩年まで出現する語である)。


例えば、愛の喪失の不安[Angst vor dem Liebesverlust]、最も根源的不安(出産時の《原不安》) ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt)]にかかわって、寄る辺なさ[Hilflosigkeit]という語は使われている。


寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失の不安と名づけるのが最も相応しい。Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden. (フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年)

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11B1926年)

不安は対象を喪った反応として現れる。最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる[Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, …daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand. ](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)


さらにもうひとつ掲げよう。


(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさと依存性[Hilflosigkeit und Abhängigkeit]ある。人間の子宮内生活 Die Intrauterinexistenz des Menschen は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスから自我の分化 die Differenzierung des Ichs vom Es]が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、きわめて高い価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden]を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


以上から判断すれば、フロイトにとって、究極的な寄る辺なさ「Hilflosigkeit]は、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben]にかかわるとしてよいだろう。


つまり、《幼児の寄る辺なさという感情までが宗教的感情(態度)の起源である[Bis zum Gefühl der kindlichen Hilflosigkeit kann man den Ursprung der religiösen Einstellung]》(『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)であるなら、フロイトにとっての宗教的観念[religiösen Vorstellungen]の起源は、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben]にあるということになる。


冒頭に示した「異者=不気味なもの」も含めて、宗教的観念をめぐるフロイトの基本用語は次のようになる。



フロイトの三つの宗教論では、不気味なものという用語が使われている。



われわれは、観念の万能とアニミズム的思考方法を確認させるようにな印象に「不気味なもの」という性格を一般にあたえているように思われる[Es scheint, daß wir den Charakter des »Unheimlichen« solchen Eindrücken verleihen, welche die Allmacht der Gedanken und die animistische Denkweise überhaupt bestätigen wollen, 」(フロイト『トーテムとタブー』第三論文「アニミズム・呪術および観念の万能」第3章、1913年)


教的観念の独特の価値[besondere Wert der religiösen Vorstellungen」〔・・・〕その第一歩とは、自然を人格化することである[die Natur zu vermenschlichen]。〔・・・〕(自然を人格化すれば)われわれはほっと息をつき、不気味ななかにも親密さを感じ[fühlt sich heimisch im Unheimlichen]、自分の馬鹿げた不安を心理的に処理できるようになる。(フロイト『ある錯覚の未来 Die Zukunft einer Illusion』第3章、1927年)


ーーフロイトは自然を地震、津波、台風、病気を挙げ、最終的には「死」としている。


エドゥアルト・マイヤー(1906)は、神の原初の性格像を再構築した。神は不気味なもので、血に飢えた悪魔であり、昼夜、歩き回る[Meyer das ursprüngliche Charakterbild des Gottes rekonstruieren: Er ist ein unheimlicher, blutgieriger Dämon, der bei Nacht umgeht und das Tageslicht scheut.](フロイト『モーセと一神教』2.41939年)



最後のエドゥアルト・マイヤーによる神の定義はいくらか過激だが、おそらく聖ペテロの手紙に由来している。



身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『聖ぺテロの手紙、58』)


ラカンの母は、《quaerens quem devoret》(『聖ペテロの手紙』)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐・口を開いた主体として表現した。La mère lacanienne correspond à la formule quaerens quem devoret. elle cherche quelqu’un à dévorer, et Lacan la présente ensuite comme le crocodile, le sujet à la gueule ouverte.(J.-A. Miller, La logique de la cure, 1993

メデューサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4,  27 Février 1957


メドゥーサの首は女性器を代替する[Wenn das Medusenhaupt die Darstellung des weiblichen Genitales ersetzt,(フロイト、メデューサの首 Das Medusenhaupt(1940 [1922])  

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.](フロイト『不気味なもの』1919年) 


くどくなるが、もうひとつ引用しておこうか。


『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE]》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif ]そのものがあるすべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[le gouffre et la béance de la bouche]、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer] …(ラカン、S2, 16 Mars 1955


『モーセ』におけるフロイト=マイヤーの「神は不気味なもの」とは、神は女陰の奈落となり、『ある錯覚の未来』の記述をとって「神が自然=死の人格化」なら、神は女陰の奈落の人格化となる。





………………


喪われた子宮内生活が宗教の起源という思考自体は特に珍しいものではないと言えるかもしれない。



例えば、日本でも折口の「妣が国」ーー祀られた母の国ーーは、喪われた子宮内生活と相同的と言ってよいのではないか。


すさのをのみことが、青山を枯山なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、われ〳〵の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。(折口信夫「妣国へ・常世へ 」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)

…「妣が国」と言ふ語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母と言ふ義である。(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)


ーー《匕は、妣(女)の原字で、もと、細いすき間をはさみこむ陰門をもった女や牝(めす)を示したもの。》(漢字源)



ところで俗信として、宮=子宮、参道=産道 、宮参り=胎内回帰というのがかつてからある。最近でも福岡の由緒正しそうな鳥飼八幡宮のウエブサイトに次の記事がある。

参道は、お産の時の産道を表していると言われています。


鳥居は、女性が足を開いて立っている姿、つまり股を表し、社殿は、女性の子宮にあたると言われています。


神社をお宮というのはそのためです。


参拝とは、参道(産道)を通り、お宮(子宮)でお参りをし、産道を通り鳥居を出て、再び外の世界へ出るということなのです。(鳥飼八幡宮、20191228日)



少なくとも日本人はなんらかの形で、喪われた子宮内生活に祈りを捧げているのかもしれない。