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2021年7月22日木曜日

ボロメオタントラ

 三ヶ月ほど、ヨガの起源として次の図を示した。



これは私の勉強不足で、わざわざ示すまでもなく『秘密集会タントラ』の冒頭にこう宣言されているのを今ごろ知った。

かくの如く私は聞いた。ある時、ブッダは一切如来の身語心の心髄である金剛妃たちの女陰に住しておられた[evaṃ mayā śrutam / ekasmin samaye bhagavān sarvatathāgatakāyavākcittahṛdayavajrayoṣidbhageṣu vijahāra ](『秘密集会タントラ』Guhyasamāja tantra


英訳)Thus was it heard by me, on occasion the bhagavān was dwelling in the vajra-women's bhagas, the matrix of the body, speech, and mind of all ones-gone-thus.



この『秘密集会タントラ』が、「最勝の大乗である金剛乗(Vajrayāna)」と名乗ったグループの先端らしい。


後期インド仏教の時代には、初期・中期の大乗経典に集約される思想を核とする既存の「大乗」とは別な発想およびそれに基づく実践内容(真言理趣, mantranaya)を表現した数多くのタントラ群が作成され続けた。このタントラを作成しその思想を鼓吹したグループの先端部分は、自らを「最勝の大乗である金剛乗(Vajrayāna)」と名乗り、それ以前・以外の「大乗」を「波羅蜜乗(Pāramitāyāna)」 「経部大乗」 「因乗」 「共の大乗(通大乗)」などと呼んでいる。(静春樹「金剛乗における複数のヴァジラパーニについて」2018年)



ここでボロメオの環に「身語心」と「女陰」を置いてみよう。





底部の女陰とは蓮華座に象徴されているのだろう。すこしまえ掲げた慶州石窟庵の大仏の台座には亀裂が入っていることが発見されたらしいが、長い間の「酷使」によるものだろうからやむ得ない・・・





性瑜伽(性ヨーガ)による成仏を唱えたタントラ密教は、思想的には、ニーチェの解釈する「ディオニソス密儀」と似たようなものかもしれない。



ディオニュソス的密儀のうちで、ディオニュソス的状態の心理のうちではじめて、古代ギリシア的本能の根本事実はーーその「生への意志」は、おのれをつつまず語る。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか永遠の生であり、生の永遠回帰である。過去において約束され清められた未来である。死の彼岸[über Tod]、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である。生殖による、性の密儀による総体的永生としての真の生である。


Denn erst in den dionysischen Mysterien, in der Psychologie des dionysischen Zustands spricht sich die Grundtatsache des hellenischen Instinkts aus - sein »Wille zum Leben«. Was verbürgte sich der Hellene mit diesen Mysterien? Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens; die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht; das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus; das wahre Leben als das Gesamt. -Fortleben durch die Zeugung, durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit.〔・・・〕


創造の永遠の悦 ewige Lust があるためには、生への意志がおのれを永遠にみずから肯定するためには、永遠に「産婦の陣痛」もまたなければならない・・・これら一切をディオニュソスという言葉が意味する。すなわち、私は、ディオニュソス祭のそれというこのギリシア的象徴法以外に高次な象徴法を知らないのである。そのうちでは、生の最も深い本能が、生の未来への、生の永遠性への本能が、宗教的に感じとられている、――生への道そのものが、生殖が、聖なる道として感じとられている・・・


Damit es die ewige Lust des Schaffens gibt, damit der Wille zum Leben sich ewig selbst bejaht, muß es auch ewig die »Qual der Gebä-rerin« geben... Dies alles bedeutet das Wort Dionysos: ich kenne keine höhere Symbolik als diese griechische Symbolik, die der Dionysien. In ihnen ist der tiefste Instinkt des Lebens, der zur Zukunft des Lebens, zur Ewigkeit des Lebens, religiös empfunden, -der Weg selbst zum Leben, die Zeugung, als der heilige Weg... (ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第4節『偶像の黄昏』1888年)





重なり目のラカンマテームはこうだ。





Js、JΦ、JAは、それぞれ心の享楽、言語の享楽、身体の享楽であり、密教タントラの「身語心」と言葉的にはピッタンコとなる。



ファルス享楽とは、身体外のものである。大他者の享楽とは、言語外、象徴界外のものである。la jouissance phallique [] est hors corps [(a)],  – autant la jouissance de l'Autre [JA] est hors langage, hors symbolique(ラカン, 三人目の女 La troisième, 1er Novembre 1974

大他者の享楽は、身体自体の享楽以外の何ものでもない[La jouissance de l'Autre, … il n'y a que la jouissance du corps propre. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 8 avril 2009)

享楽は、身体の享楽と言語の享楽の二つの顔の下に考えうる[on peut considérer la jouissance soit sous sa face de jouissance du corps, soit sous celle de la jouissance du langage  (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 27/5/98)

意味の享楽[Js]は最も心的なものであり、身体の想像界の享楽と身体に付随した表象の享楽をもたらす。la joui-sens, la plus mentale, qui met en jeu l'imaginaire du corps et des représentations qui s'y attachent; (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)




享楽(悦)も、究極的には涅槃=死であり、女陰だ。


愛はイマージュである[l'amour ; soit de cette image](Lacan, AE193, 1965)

欲望は言語に結びついている[le désir tient au langage  (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance. (Lacan, S17, 26 Novembre 1969)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel …la mort, dont c'est  le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976

モノは享楽の名である[das Ding…est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche1919年)



密教であれディオニュソス密儀(ニーチェ)であれ精神分析であれ、突き詰めれば「蓮華」に至る。そう言っておこう。






フェレンツィ(1921–1922)が説明した橋[der Brücke. Ferenczi hat es 1921–1922 aufgeklärt.]。橋は何よりもまず、両親が性交において結びつく男根を意味する[der Brücke…Es bedeutet ursprünglich das männliche Glied, das das Elternpaar beim Geschlechtsverkehr miteinander verbindet]。


だがそこからさらに別の意味への展開がある。その意味は、橋は、他の世界(未生の状態、子宮)からこの世界(生)へのの越境である。さらに橋は母胎回帰(羊水への回帰)としての死をもイメージする[wird die Brücke der Übergang vom Jenseits (dem Noch-nicht-geboren-sein, dem Mutterleib) zum Diesseits (dem Leben), und da sich der Mensch auch den Tod als Rückkehr in den Mutterleib (ins Wasser) vorstellt, ](フロイト『新精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933年)