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2021年4月21日水曜日

孔徳之容原理

 



英語文献をいくらか探った範囲では、ヨガ(ヨーガ)が女陰と男根の合体の意味をもつという記述に行き当たらないが、やはりサンスクリット語の字面を眺める限りでは、

योग = योनि + लिङ्ग いうことでありそうだ。

すなわち、語源的には、ヨガは女陰と陰茎の結合の意味を持ちうる。



一般的な説明については、比較的充実しているWikipediaのヨーガの項以外に、明治大学蛭川研究室の「ヨーガと気功」に簡潔なまとめがある。

ヨーガとはサンスクリット語で「結合」「統御」を意味する。ヨーガの伝統には、大きく分けて古典的なヨーガと密教的なヨーガがある。歴史的には、中世になって、 西からの新興勢力、イスラームの影響が強まる中で、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教が、そろってタントリズム(密教)という新しい方法を発展させる。多少のリスクをおかしてでも、より早く解脱の境地に至れるように、身体的、とくに性的な行為をつうじて瞑想を加速させる方法が開発されていった。〔・・・〕


ハタ・ヨーガでは最下部、会陰のムーラーダーラチャクラにクンダリニーという蛇、ないしシャクティという女神によって象徴される[女]性的なエネルギーが眠っており、これを目覚めさせ、 スシュムナーに沿って頭頂まで引き上げることにより、解脱の境地に至る。 そのための身体技法がムドラーで、性的な方法が使用されることもあるため、秘密の方法とされた。ムドラー、つまり封印と呼ばれるのはそのためである。〔・・・〕


性的なエネルギーを上昇させ、昇華させ、性を聖に転化させるというのが、ハタ・ヨーガの基本的な考えである。それに対し、気功には、宇宙の気を吸い込んで眉間の上丹田に集め、それを下腹の下丹田に降ろしていくという呼吸法もあり、小周天という循環の回路も考えられている。一般にインド的な身体技法には、身体を超越するという 彼岸的発想が濃厚で、それに対し漢族的な身体技法には、循環によって身体のバランスをとるという現世的傾向が強い。(蛭川研究室「ヨーガと気功」)



次のようになってしまうのはまだ修行が足りないせいだろう。







いやそうでもなさそうだ・・・





ところでタントラ、つまり密教といえば日本では真言宗であり、高野山がまず思い浮かぶ。というわけで写真を探ってみる。




ははあ、とってもしまりがよさそうな仏への道である・・・

上に《ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教が、そろってタントリズム(密教)という新しい方法を発展させる。多少のリスクをおかしてでも、より早く解脱の境地に至れるように、身体的、とくに性的な行為をつうじて瞑想を加速させる方法が開発されていった》とあったが、解脱の早道ためにはここで修行すべきではなかろうか。




ははあ、少女期からの寒中水行が秘訣か・・・

………………


さて以前にも引用したことがあるが、「yoga = yoni + lingam」の記述がある論文からここでは長く引用しておく(OCR 変換しての貼り付けであり、細部に読み取りのミスがありうるので正確には原論文を参照されたし)。



人類の歴史を振り返れば、文明は科学の logos に支えられて大きな輝かしい進歩を遂げてきた。しかし、他方、現代人は、「母なる宇宙」の不自然、「母なる大地」の不自然、そして、人間自身の不自然があまりにも大きくなり、自然への回帰が最重要課題であることに気づいている。この自然への回帰は、月女神の恩寵への回帰でなければならない。


実は、現代人の Yogaへの関心の高まりは、月女神の恩寵への回帰の現れである。サンスクリットの yoga は yoni(女陰)と lingam(男根)の「結合・合体・神」を意味している。これは、androgyne が gyne と andro の結合であることと同じである。その Yoga のモデルは、原始ヒンズー教(タントラ教)のKali Ma と Shiva の性的結合による恩寵である。これも、Aphrodite と Henmesの性的結合モデルの恩寵と同じである。従って、Yoga と androgyne の本質は単なる楽しみや遊びではなく、「宇宙・自然・女性」を貫いている母性の中に入り、「ひとつ(uni)」になることである。いや、母なる宇宙(universe)の胎内(uni と yoni は同語源)のマクロコスモスの中にミクロコスモスとして入ることである。そして、月女神の女性原理に従うことである。このように Hermaphroditeと androgyne の謎解きをしてみると、今日、医学の分野で使われている「性分化発達障害」の意味の「両性具有」という日本語の訳語は適切とは言えないのかも知れない。


従ってこのKali Ma の Yoga の 恩寵は、Aphrodite、そして月女神一族の恩寵と同じなのである。「創造→維持→破壊」の月女神が輝いていた時代、女神の化身としての巫女が、Hermes の場合と同じように、神殿に祈願に来る男性に性的至福の恩龍を授けていたのだ。その恩寵がギリシア語の kháris、ラテン語の caritasである。そして、それがcharisma なのである。バビロンでも Kali Ma にあたる Ishtar の化身の巫女が、神殿で恩寵を授けていた。映画や小説で話題になった『ダヴィンチコード』のMagdaleneの Maria も、同じ恩寵を授けていた。そして、キリスト自身もその Magdalene(神殿)のMaria を大切にしたのである。そもそも、キリストだけでなく、月女神の時代から神殿の巫女から生まれた子は、「言葉(logos)の化肉(顕現)」の「救世主」と言われ、神の子として崇められていたのである。


Ishtar の化身の巫女たちは、Ishtar を HAR と呼んでいた。HAR はペルシア語の Houri、バビロンのHarine、ギリシアの Hora である。この巫女たちが、ペルシアでは天女の houri、ギリシアではhorae と呼ばれ、夜の時刻を守るために「時(Time)の踊り」を司っていた。それは、宇宙の中心、神殿の中心のHestia の「炉」を回る踊りであった。HAR の巫女たちの「時間を司る女性たち(Ladies of the Hour)」が、「時間の踊り(The Dance of the Hour)」の儀式を始めたのである。そして、「時間」を意味する hourの語源になったのである。今日でもヘブライ人の伝統的なフォークダンスは、この「時間の踊り」に由来して hora と呼ばれている。また、HAR を語源にした言葉に、「女性の神殿」の harem がある。


「性的恩寵」を意味するギリシア語の kháris は、先史時代には cale、kale とも発音され、サンスクリットの kali と同じであったと言われている。この kháris、caritas から、「美と優雅」の女神たちが生まれ、後にその中から三柱の女神を選び三美神として崇めたのである。「若さ」の Thaleia、「喜び」の Euphrosyne、「輝き」の Aglaia の三美神(Charis たち、Three Graces)である。三美神はヌード芸術でよく表現され、また Aphrodite の随伴者になった。


Ishtar の別称の HAR に対応するギリシア語のHora は「季節と秩序」の女神になり、Horae(ホーラたち)は「秩序」の Eunomia、「正義」のDike、「平和」のEirene の三柱の女神になった。また、Horae は植物や花を司る「自然の季節」の女神となった。


Aphrodite (Venus), Hora, Charis (三美神) は、フィレンツェルネサンス期に再び強い関心を呼び、ボッテチェリの「ヴィーナスの誕生」「春」に表現されている。この溢れるばかりの「美と優雅」が両性の愛の紳、性的結合のもたらす女神たちの恩寵の輝きであった。ところが、キリスト教は身体的結合を抜きにした、精神的恩寵だけの charity にし、「慈善」にしてしまった。そして、絵画の中の女性は身体の輝きを失った。その輝きを取り戻したのがルネサンスである。キリスト教は、「性衝動、性的結合は生得の悪である」とし、自然な性的結合の kháris, yoga をすっかり損ね、そのことにより現実の性的結合の考え方も実際も不自然にし、逆に歪め、異常な方向に向かわせてしまった。


その異常な事例の一つに ascenticism の「禁欲主義」がある。自然な性的結合の恩寵を否定し、その欲望に駆られる自己を否定し、自らに難行苦行を課す禁欲主義生活を勧めたのである。なぜ母性と「ひとつ」になる官能的恩寵を徹底的に排除することになったのか。


母権制社会、月女神の一族の神々が輝いていた時代に、男性たちの最大課題は、なぜ女性が子を産むことができて、男性にはそれができないのかということであった。男性が子を産むことは不可能なことなのか。この問に対する答え探しは、母権制社会から父権制社会への移行過程から始まり、オリンポス神話では、主神 Zeus は頭から Athene を産み、太腿から Dionysusを産むという文字通り神技を使ったわけだが、キリスト教はこの問題を asceticism として徹底的に追及したのである。もちろん、他の宗教にもそれはあったが、例えば、インドのヒンズー教の難行苦行がそうであった。この難行苦行が普通にはありえない奇跡をもたらすと信じたのである。これがそもそもの asceticism の始まりであった。その後、この asceticismは、修道院の「祈り働く」修徳主義になり、宗教改革を経たキリスト教は物的禁欲主義へと変遷することになった。


「創造→維持→破壊」の循環の三相一体の「死と再生」原理を信じていた時代、女性は母から娘、娘から孫娘へと自分自身の生命が永遠に続く「無限の生命(ゾーエー zoe)」を実感できた。他方、男性は一度限りの「有限の生命(ビオス bios)」でしかないコンプレックスを抱いていた。そのために、男性は女性になろうとして、擬娩(convade)、女装(transvestism)し、さらに、去勢(castration)という不自然なことをしたのである。Kronos の去勢と Aphrodite の誕生も、またZeus の太腿の話も去勢を意味していた。去勢することによって子を産みたい。その強い願望が男神たちの去勢による出産神話を創ったのである。これは、インド・ヨーロッパ言語文化圏だけでなく、世界中の神話に見ることができる。そして、仕舞には父神が去勢すれば母神の能力がつき、造物主になれるという創世神話に発展したのである。後に、去勢の儀式は子どもにも及び、割礼をし、経血のシンボルの塩でもみ、子をもうける力を授けたのである。


子を産むことこそが、「死と再生」の最も大切な神性である。「創造の言葉(logos)」、「創造物の根源(menstrul blood)」、「栄養物の根源(milk)」は、女神・女性の聖なる本質的属性である。そこで、男性は女神、女性の力をつける努力をし、男神のを去勢して出産神話、造物主神話を創ってみたが、現実の男性には出産の奇跡が起きるわけがなかった。また、キリスト教以前のギリシアで Hera の生賛になって巫女の女性たちに自らの血と肉を食してもらい、巫女から生まれなおそうとしても現実にはありえなかった(hero & cannivalism)。あり得るのは、「母と父と子」、「父と母と子」の三相一体の原理に従って、女神・女性と愛の神を結び続けることである。その理想モデルがHermaphrodite であった。芸術課題として、フィレンツェ・ルネサンスから、ロダン、ピカソの現代に続いている Aphrodite 讃歌である。


ところが、キリスト教は、「母と父と子」、「父と母と子」の三相一体の原理ではなく、「父と子と聖霊」の三相一体の原理に従い、聖体拝受(Eucharist)の不死性のキリストの聖体のパン(肉)と葡萄酒(血)による全質変化(transubstantiation)のシナリオを示したのである。パンと葡萄酒を食し、飲み、不死性のイエスの肉体と血に変質するという信仰である。しかし、この全質変化は、男性にとっても、女性にとっても、生まれ出てからのシナリオとしてはよいけれども、生まれ出る前提の性衝動と性的結合を否定したのでは生まれるべき子も生まれてこない。現代の科学の時代にあっても、現代人の多くは「母と父と子」「父と母と子」の三相一体の原理に従い「子ども→孫一→曾孫→……」と生命が続いていく素朴な人間観を支持している。


これはあまり知られていないことだが、出産が産婆(助産婦)に長く依存していたために、婦人医学が立ち遅れ、卵子が発見されたのは 1827年のことであった。カールフォンベーア(Karl von Baer)が初めて、人間の卵子(ovum)を発見し、精子(sperm)に比べ大きく、複雑であることを明らかにした。この発見で、ギリシア悲劇のアイスキュロス、そして聖アウグスティヌス、聖トマス·アクィナス等が主張してきた「母は、父の種(seed)が育つ土壌(soil)に過ぎない」という考え方が修正されることになった。卵子(ovum)と精子(sperm)の結合で初めて種子(seed)が誕生する。それは、性衝動、性的結合の讃美があってのことである。これを抑圧し、生得の悪と決めつけ、交接で生まれた子は不浄の子であるから洗礼を受けなければならないというのは、極めて不自然である。その意味で、現代人が古代母権制社会から学ぶべきことは、月女神の恩寵を想起し、その原点に立ち返ることである。フィレンツェ・ルネサンスに関連づければ、古代ギリシアに立ち返った文芸復興を、さらにそれ以前のインド,ヨーロッパ言語文化圏の祖語·祖宗教の先史時代の根源的宇宙観にまで立ち返って、原始原初の月女神の恩寵を想起し、宇宙原理、自然原理、女性原理を貫いている母性力を最大優先し、その文芸復興を図ることである。

(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf


「月女神の女性原理」とは結局、「女陰原理」ということなのだろう。もういくらか上品に「玄牝之門原理」、さらに上品に「孔徳之容原理」と呼ぶべきか。

谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」)


谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子「玄牝之門」福永光司訳)


孔徳之容、唯道是従。道之為物、唯恍唯惚。惚兮恍兮、其中有象。恍兮惚兮、其中有物。窈兮冥兮、其中有精。其精甚真、其中有信。(老子『道徳経』第二十一章)


女性的な「徳(はたらき)」の深い孔のようなゆとりにそって「道」はただ進むだけだ。この道が物を作るのは、ただ恍惚の中でのことだ。恍惚の中で象(かたち)がみえる。その恍惚の中に物があるのだ。そしてその奥深くほの暗い中に精が孕まれる。この精こそ真に充実した存在であって、その中に信が存在する。(老子「孔徳之容」保立道久訳)


先ほど引用したのは「古代母権制社会研究の今日的視点」の結論箇所だが、中程に次の記述がある。


そもそもの原初のlogos はどの地域からどのようにして出てきたものなのか。それはインドの原始ヒンズー教(タントラ教)の女神 Kali Ma の「創造の言葉」のOm(オーム)から始まったのである。Kali Maが「創造の言葉」のOmを唱えることによって万物を創造したのである。しかし、Kali Maは自ら創造した万物を貪り食う、恐ろしい破壊の女神でもあった。それが「大いなる破壊の Om」のOmegaである。


Kali Maが創ったサンスクリットのアルファベットは、創造の文字Alpha (A)で始まり、破壊の文字Omega(Ω)で終わる. Omegaは原始ヒンズー教(タントラ教)の馬蹄形の女陰の門のΩである。もちろん、Kali Maは破壊の死のOmegaで終りにしたのではない。「生→死→再生」という永遠に生き続ける循環を宇宙原理、自然原理、女性原理と定めたのである。〔・・・〕


後のキリスト教の父権制社会になってからは、logosは原初の意味を失い、「創造の言葉」は「神の言葉(化肉)」として、キリスト教に取り込まれ、破壊のOmegaは取り除かれてしまった。その結果、現象としては確かめようのない死後を裁くキリスト教が、月女神の宗教に取って代わったのである。父権制社会のもとでのKali Maが、魔女ということになり、自分の夫、自分の子どもたちを貪り食う、恐ろしい破壊の相のOmegaとの関わりだけが強調されるようになった。しかし、原初のKali Maは、OmのAlpha からOmegaまでを司り、さらに再生の周期を司る偉大な月女神であった。


月女神Kali Maの本質は「創造→維持→破壊」の周期を司る三相一体(trinity)にある。月は夜空にあって、「新月→満月→旧月」の周期を繰り返している。これが宇宙原理である。自然原理、女性原理も「創造→維持→破壊」の三相一体に従っている。母性とは「処女→母親→老婆」の周期を繰り返すエネルギー(シャクティ)である。この三相一体の母権制社会の宗教思想は、紀元前8000年から7000年に、広い地域で受容されていたのであり、それがこの世の運命であると認識していたのだ。


三相一体の「破壊」とは、Kali Maが「時」を支配する神で、一方で「時」は生命を与えながら、他方で「時」は生命を貪り食べ、死に至らしめる。ケルトではMorrigan,ギリシアではMoerae、北欧ではNorns、ローマではFate、Uni、Juno、エジプトではMutで、三相一体に対応する女神名を有していた。そして、この三相体の真中の「維持」を司る女神が、月母神、大地母神、そして母親である。どの地域でも母親を真中に位置づけ、「処女→母親→老婆」に対応する三相一体の女神を立てていた。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf



最後に限りなく美しいイナンナInanna(別名イシュタル Ishtarーーシュメールの母なる大地としての女神ーーの最近発掘された彫像を掲げておこう。





小文字のオメガを象形しているのは、股の間ではなく乳房のせいだろう。




Wikiに《サンスクリット語のヨーガ (योग) は、「牛馬にくびきをつけて車につなぐ」という意味の動詞 根√yuj(ユジュ)から派生した名詞で、「結びつける」という意味もあるとあるが、馬蹄形のオメガが重要なのはここでも証明されている。