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2021年7月22日木曜日

涙とため息

 1956年、加藤周一37歳のときに書かれた「日本の涙とため息」。ネット上で拾ったのだが、とても良い文だ。今だって十二分にこう言える。


日本には一種の集団的遡行性記憶喪失症とでもいう他ない現象がある。〔・・・〕


敗戦の『ショック』があった。そこで『一億総ざんげ』ということがいわれたが、これは戦争の記憶のなかでもいちばん大事な戦争責任者の名前を忘れるということであった。つまり遡行性記憶喪失症の最初のあらわれである。日本のように高度に組織された中央集権的国家に特定の戦争責任者がなかったなどということは御伽噺にすぎない。戦争責任者はいなかったから『一億』ということばが出てきたのではなく、忘れられたから一億の責任ということになったのである。なにも戦争責任者にかぎらない、たとえば勅語のおかげで戦争が終わったときには、勅語のおかげで戦争のはじまったことは忘れているから、陛下のありがたさが身に沁みるのだ。アメリカ人が日本の主人公になったときには、『鬼畜米英』は『撃ちてしやまん』は忘れているから、風俗的、学問的にアメリカ人を模範とすることが実にたのしく、にぎにぎしい。国の民主化が問題になったときには、自由主義が日本の国体に反していたはずだということは忘れているから、いわゆる『自由』をまもるためには身を投げ打って共産主義征伐にも乗り出しかねない気迫が漲ってくる。-それが敗戦のショックというもので、そのためにおこった記憶喪失症の型は、個人が酔っ払った後で自動車にはねられたときとよく似ているだろう。


涙と溜息の国、日本の日常生活が暗いかというと、それほど暗くはない。結構楽しくやっているという面もある。そのたのしさがその日暮しの先のないものだという感じはあるが、それは何も日本にかぎった話ではない。


弊害…その第一は、文化は、持続的なものであるからやたらにもの忘れをする社会に、ほんとうの文化は育たないということである。その第二は、過去を忘れる社会は、また未来をも忘れるということ、別の言葉でえば、そのために未来を楽天的に受け取ることはできるだろうが、未来について正確なみとおしをもつのぞみはないということである。〔・・・〕


先のことは個人的にもあてにならないが、社会としても全くあてにならないだろう。そういうときに朗らかに暮らすためには、先のことを一切考えないより他に手がないということを、どうしても朗らかに暮らす必要のある人たち、即ち、日本の青年は、いわば本能的に知っているのだ。〔・・・〕


未来については、たとえばどれほど不安な未来であろうと、みとおしがなければならない。しかし未来の見とおしは、忘れられた過去の分析からひきだされないとしたら、一体どこからひきだされるのか。〔・・・〕


本能的には感傷的で、意識的に徹底した現実主義者である、一種の型の専門家ができあがるわけだ。〔・・・〕


涙と溜息に養われた魂は、理想主義と無慈悲な権力政治との現実をならべて、しかも自分の考えを貫くことができず、感傷的でない理想主義を想像することもできない。〔・・・〕


しかし、感傷的でない理想主義というものは、現実にあり、しかもそれが先の見通しを可能にするものなのだ。先の見とおしをもつということは、すでにあった事実のなかからある一つの方向をもった流れをみつけだすということである。その操作は事実についての情報を集めることだけでは完結しない、事実の集積に対する精神の側からの積極的な働きかけを必要とする。その精神の側からの現実に対する積極的なはたらきかけこそは、感傷主義とはなんの関係もない本来の意味での理想主義であろう。理想主義がなければ現実主義もない。理想主義なしにあり得るのは、せいぜ大きな見とおしのない小手先のかけ引きにすぎない。(加藤周一「日本の涙とため息」1956年)




この「日本の涙とため息」は、何度か掲げている丸山真男の次の発言と「ともに」読むことができる。

日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。


イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。


ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないんじゃないですか。


人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていいたくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思うんです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけではなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間が見えなくなったところからきている。


しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山真男『丸山座談5』針生一郎との対談)1965年)