まったく門外漢の者として備忘するが、仏教における空(クウ)は、サンスクリット語では「シューニヤ」 (śūnya)で、《語源的にみると、śūnya は、śū(=śviふくれる)の過去分詞 śūnaからつくられた》そうだ。
「仏教における空について」坂部明(2007年) |
(1)空の原語について |
空の原語は、サンスクリット語では「シューニヤ」 (śūnya)、パーリ語では「スンニャ」(suñña)である。これらは品詞としては、形容詞、または中性名詞として使われる。すなわち、述語として「……は空である」と表現する。またこの単語には、しばしば抽象名詞を作る語尾taをつけて、シューニヤタ (śūnyatā、空であること、空性)という用語が作られしばしば仏典に現れる。ただ、これらの単語は主語としては用いられないという特徴を持っている。ただし「空亦復空」という場合を除いてではあるが。ここには、空の思想的意味が含まれている。つまり、空という概念を実体としてとらえてはならない、ということなのである。龍樹(ナーガルジュナ)造『大智度論』には、 「空という薬を煩悩という病に用いて治癒したとしても、薬が残っていればなおそれがもとで病となるようなものである。」 といって空にとらわれることを戒めている。意外なことのように見えるかもしれないが、空の精神を実践主体とする『般若経』には、空とは何かという説明は一切ない。空を主語にして、空に実体があるがごとくに説明することはないのである。空は常に述語表現である。ただ空を比喩表現で説明するのみである。〔・・・〕 |
語源的にみると、śūnya は、śū(=śviふくれる)の過去分詞 śūnaからつくられた。したがって、その単語は、「ふくれあがった、うつろな」という意味である「ふくれあがったものは中がうつろである。われわれは、ここに実体があると思っている。けれども、実体性はしょせん限定されたものにすぎない。これが未来永久に存在するわけではない。ある限られた時間の間だけ存在するものである。だから、実体性は勝義においていえることではない。究極において認められるものではない。どこまでも限られた意味において実在するものである。実体とみえるものも、本質はうつろである。いつかは欠けて、滅びるものである」(中村元『仏教思想 空』1981)。「仏教がこの語を取り上げて用いるときも、それは強い否定の表現であると同時に、究極の真実在を積極的に示唆するものであって、いわば否定を通じての肯定、相対の否定によって絶対を直感することを意図している」(長尾雅人 『中観と唯識』 1979)。 |
(2)空の比喩について 大乗仏教でいう空という意味は、かならずしも空無を意味しているわけではない。存在を実体としてとらえ、執着して苦悩する自己の解放と、他者にたいしては、自他平等の慈悲心から空観を実践するという立場があるのである。空はなんとしても平易に理解されるべきものである。そこで般若経は十種の比喩を用いて空を説明する。比喩表現を多用するのは、インド人の民族性に由来する。インド論理学の五分作法にも「喩」が存在している。比喩は智者に意義を知らしめるために用いられるという。初期仏教の古層に属するとされる『スッタニパータ』, 『ダンマパダ』にも比喩表現が多くみられるから、この傾向は仏教初期のころから存在していたものと思われる。 般若経に説かれる十種の比喩は次のとおりである。 |
1.幻(māyā) 2.焔(marīci) 3. 水中の月(udaka-candra) 4.虚空(ākāśā) 5. 響(pratiśrutkā) 6. 揵闥婆城(gandharva -nagara) 7.夢(svapna) 8.影(pratibāhāsa) 9.鏡中の像(pratibimba) 10.化(nirmita). |
この中で特に注目すべきなのは、 4.虚空である。 「空」 (śūnya)にはゼロ(0)の意味がある。空が否定的な響きを持っているのはそのためである。ゼロはただ何もないという意味だけではなく、十進法からみればゼロを加えることにより、十倍の数値となるのは周知のとおりである。 この数学のゼロの概念は、インドにおいて発見された。インド数学では、ゼロを表示する語は「シューニャ」のはかにいくつかあるが、その中に「アーカーシャ」 (ākāśā)というのもある。これは虚空の原語である。そしてゼロを表示する語のほとんどが、虚空もしくは雲を意味している。 「シューニャ」にも, 「そら」 (the sky)という意味がある。 これらのことから、ゼロの概念は虚空となんらかの深い関連性が考えられるのである。 仏教の空も、理論的にというよりは、より具象的に、実践的に、虚空の有様を注意深く観察することによって理解されたのではなかろうか。 (坂部明「仏教における空について」2007年) |
ところで「子宮=墓」も「膨れる」という意味があるようだ。 |
現代の私たちは、「墓」の意味をすでに忘れてしまったが、「墓」のギリシア語は tumbos 、ラテン語は tumulus で、共に「膨れる」ということであった。それが英単語の tomb の語源である。tomb は womb の「子宮」と言語的に関連していたのだ。古代の巨石墳墓や塚は死者を再生させる子宮で、墓道は子宮への膣を意味し、子宮を大型化した設計であった。(「古代母権制社会研究の今日的視点―神話と語源からの思索・素描―」松田義幸・江藤裕之、2007、pdf) |
ーー仏教の空は、究極的には子宮=墓かもな。
もうひとつ、《 「空」 (śūnya)にはゼロ(0)の意味がある》とあるが、柄谷はこう記している。
ゼロは紀元前のインドで、算盤において、珠を動かさないことに対する命名として、実践的・技術的に導入された。ゼロがないならば、たとえば二〇五と二五は区別できない。つまりゼロは、数の「不在をさまたげることを固有の機能とする」(レヴィ=ストロース)のである。ゼロの導入によって、place-value-system(位取り記数法)が成立する。だが、ゼロはたんに技術的な問題ではありえない。それはサンスクリット語においては、仏教における「空」(emptiness)と同じ語であるが、仏教的な思考はそれをもとに展開されたといっても過言ではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年) |
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これは簡単に言えば、《ゼロ度とは、厳密に言えば、何もないことではない。ないことが意味をもっていることである。》(ロラン・バルト『零度のエクリチュール』1964)ーーということだろうな。
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※付記
そもそもの原初のlogos はどの地域からどのようにして出てきたものなのか。それはインドの原始ヒンズー教(タントラ教)の女神 Kali Ma の「創造の言葉」のOm(オーム)から始まったのである。Kali Maが「創造の言葉」のOmを唱えることによって万物を創造したのである。しかし、Kali Maは自ら創造した万物を貪り食う、恐ろしい破壊の女神でもあった。それが「大いなる破壊の Om」のOmegaである。 Kali Maが創ったサンスクリットのアルファベットは、創造の文字Alpha (A)で始まり、破壊の文字Omega(Ω)で終わる. Omegaは原始ヒンズー教(タントラ教)の馬蹄形の女陰の門のΩである。もちろん、Kali Maは破壊の死のOmegaで終りにしたのではない。「生→死→再生」という永遠に生き続ける循環を宇宙原理、自然原理、女性原理と定めたのである。〔・・・〕 |
後のキリスト教の父権制社会になってからは、logosは原初の意味を失い、「創造の言葉」は「神の言葉(化肉)」として、キリスト教に取り込まれ、破壊のOmegaは取り除かれてしまった。その結果、現象としては確かめようのない死後を裁くキリスト教が、月女神の宗教に取って代わったのである。父権制社会のもとでのKali Maが、魔女ということになり、自分の夫、自分の子どもたちを貪り食う、恐ろしい破壊の相のOmegaとの関わりだけが強調されるようになった。しかし、原初のKali Maは、OmのAlpha からOmegaまでを司り、さらに再生の周期を司る偉大な月女神であった。 月女神Kali Maの本質は「創造→維持→破壊」の周期を司る三相一体(trinity)にある。月は夜空にあって、「新月→満月→旧月」の周期を繰り返している。これが宇宙原理である。自然原理、女性原理も「創造→維持→破壊」の三相一体に従っている。母性とは「処女→母親→老婆」の周期を繰り返すエネルギー(シャクティ)である。この三相一体の母権制社会の宗教思想は、紀元前8000年から7000年に、広い地域で受容されていたのであり、それがこの世の運命であると認識していたのだ。 |
三相一体の「破壊」とは、Kali Maが「時」を支配する神で、一方で「時」は生命を与えながら、他方で「時」は生命を貪り食べ、死に至らしめる。ケルトではMorrigan,ギリシアではMoerae、北欧ではNorns、ローマではFate、Uni、Juno、エジプトではMutで、三相一体に対応する女神名を有していた。そして、この三相体の真中の「維持」を司る女神が、月母神、大地母神、そして母親である。どの地域でも母親を真中に位置づけ、「処女→母親→老婆」に対応する三相一体の女神を立てていた。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf) |