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2021年7月26日月曜日

不条理の人格化

ここでは宗教の起源についての記述だが、主にフロイトをベースにしたものであり、フロイトは宗教学者ではないので偏ったところがあるだろう。それに留意して読んでいただきたい。


ショーペンハウアーによれば、死の問題はあらゆる哲学の入口に立っている。また、アニミズムの特徴である霊魂観念や悪魔信仰も、死が人間にあたえる印象にもとづいて形成されたものだということも、われわれは聞いている。Das Todesproblem steht nach Schopenhauer am Eingang jeder Philosophie; wir haben gehört, daß auch die Bildung der Seelenvorstellungen und des Dämonenglaubens, die den Animismus kennzeichnen, auf den Eindruck zurückgeführt wird, den der Tod auf den Menschen macht. (フロイト『トーテムとタブー』第三論文「アニミズム・呪術および観念の万能」第3章、1913年)


この『トーテムとタブー』の文は、『ある錯覚の未来』の次の文とともに読むことができる。


宗教的観念は、文化の他のあらゆる所産と同一の要求――つまり、自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要――から生まれた。daß die religiösen Vorstellungen aus demselben Bereich hervorgegangen sind wie alle anderen Errungenschaften der Kultur, aus der Notwendigkeit, sich gegen die erdrückende Übermacht der Natur zu verteidigen.(フロイト『ある錯覚の未来 Die Zukunft einer Illusion』第4章、1927年)


「自然の圧倒的な優位」とあるが、フロイトはこれについて地震、洪水、台風、病気、そして死を挙げている。


die Erde, die bebt, zerreißt, alles Menschliche und Menschenwerk begräbt, das Wasser, das im Aufruhr alles überflutet und ersäuft, der Sturm, der es wegbläst, da sind die Krankheiten, die wir erst seit kurzem als die Angriffe anderer Lebewesen erkennen, endlich das schmerzliche Rätsel des Todes, (フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』第3章、1927年)


つまりフロイトにとっての宗教的観念に起源は、究極的には死に関わると言ってよいだろう。ここでの死は、前回記した「死の彼岸の永遠の生=不死の生」を含めての死である。


とはいえ、われわれの日常的な生においては「世界の不条理」から身を守ろうとする思考が宗教的観念の起源だという言い方が可能である。


まことに、人生は偶発性と不確定性と不条理性に満ちている。宗教はこれに対する合理化であり埋め合わせでもある。「いかなる未開社会でも確実に成功するものに対しては呪術は存在しない」と人類学者マリノフスキーはいう。棟上げ式も、進水式も不慮の事故を怖れ、成功と無事故を祈るものである。


どの個別宗教もその教義、教典が成立した時に、その時のその場の何かがもっとも先鋭な不条理であったかを鋳型のように示している。一神教は苛烈な不条理に直面しつづけたユダヤ民族の歴史を映しているだろう。(中井久夫「日本人の宗教」2007年) 




フロイトは宗教的観念の価値は何なのかと問うて、第一に「自然の人格化」die Natur zu vermenschlichenとしている。

いったい、宗教的観念の独特の価値はどこにあるのか[Worin liegt der besondere Wert der religiösen Vorstellungen? 〔・・・〕


文化は人間を自然から守るというその使命の遂行を一時停止するのではなく、ただこれまでとは違った手段を用いてその使命の遂行を継続するだけである。この場合、文化の使命はいくつかある。ほとんど自信を失いそうになっている人類は慰めを要求しているし、自然界や人生が見せる恐ろしい相貌は取り払われなければならず、さらには、人類の知識欲ーーここにも非常に強い現実的な関心が働いていることはもちろんであるー一にも一応の返答が与えられなければならない。


第一歩を踏み出しただけでも、はや非常に大きな収穫がえられる。その第一歩とは、自然を人格化することである[die Natur zu vermenschlichen]。


人格を持たない力や運命などは、永遠に異者で、近づこうにも近づきようがない。[An die unpersönlichen Kräfte und Schicksale kann man nicht heran, sie bleiben ewig fremd.


ところが、自然現象の中にもある自分の胸の中と同じさまざまの情熱が荒れ狂っていると考え、死すらも偶発的なものではなくなにかある悪意を持った存在による暴力行為だと考え、また、自然界のどこにいても自分のまわりにあるのけは自分たちの社会を構成しているのと同じような存在だと考えるとーーわれわれはほっと息をつき、不気味ななかにも親密さを感じ[fühlt sich heimisch im Unheimlichen]、自分の馬鹿げた不安を心理的に処理できるようになる。


無防備という点ではおそらくまだもとのままであろうが、もはや寄辺のない虚脱状態にあるのではなく、少なくとも、反応するだけの力は回復している。それどころか、おそらくは無防備状態すら脱しており、外部の乱暴な超人間[gewalttätigen Übermenschen draußen にたいしても、自分が住んでいる社会で使うのと同じ手段を応用することが可能で、頼みこむこともできれば、慰撫や龍絡という手もあり[kann versuchen, sie zu beschwören, beschwichtigen, bestechen, raubt ihnen 、この種の手段によって相手の力の一部を奪い取るのである。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』第3章、1927年)




この自然の人格化は、何よりもまず「不条理の人格化」、究極的には「死の人格化」と言い換えうる。『トーテムとタブー』と『ある錯覚の未来』というこの二つの宗教論から判断できるのは、不条理や死を慰撫や龍絡するのが、フロイトにとっての宗教的観念である。


フロイトはこうも言っている。


宗教的教理はすべて錯覚であり、証明不可能で、何人もそれを真理だと思ったり信じたりするように強制されてはならない。 den religiösen Lehren, …Sie sind sämtlich Illusionen, unbeweisbar. Niemand darf ge-zwungen werden, sie für wahr zu halten, an sie zu glauben..(フロイト『ある錯覚の未来の未来 Die Zukunft einer Illusion』第6 章、1927年)



これは、ある特定の宗教の信仰を強制されてはならない、だが人間には不条理や死を慰撫や龍絡する必要があるとすれば、特定の宗教の信仰を貶めてはならない、という風に当面捉えておくことにする。


フロイトは『トーテムとタブー』でアニミズムを世界観の起源としている。


アニミズムは一つの思想体系であって、それは個々の現象を説明するだけではなく、世界全体を唯一の関連として一つの観点から把握することを可能ならしめるものである。論者たちの説くところにしたがうならば、人類は時の流れにつれて三つのこうした体系、三つの大きな世界観を生み出した。すなわち、アニミズム的(神話的)世界観、宗教的世界観、および科学的世界観である[Die animistische (mythologische), die religiöse und die wissenschaftliche]。このうちで最初に創られたもの、すなわちアニミズム的世界観は、おそらくもっとも首尾一貫した遺漏のないもの、世界の本質を余すところなく説明するものである。(フロイト『トーテムとタブー』第三論文「アニミズム・呪術および観念の万能」第1章、1913年)



つまりはこういうことだ。




科学的世界観を絶対的に信仰するよりは、人はいくらかアニミストであるべきではないか。


ラブレーはこう言っている、《良心なき科学はアニマの墓場に他ならない[Science sans conscience n'est que ruine de l'âme ]》。まさにその通り。坊主の説教なら、昨今の科学はアニマの荒廃[ravages をもたらしているとの警告になるが、周知の通り、この時世ではアニマは存在しない[âme qui comme chacun sait n'existe pas]。事実、昨今の科学はアニマを地に堕としてしまった ça fout l'âme par terre !


あなた方は気づいていないだろうが、私が言いたいのは、科学はアニマを全く役立たずにしてしまうということだ[ça la rend complètement inutile]。(Lacan, S21, 19 Février 1974



ドゥルーズはニーチェのアリアドネをアニマと解釈した。


アリアドネはアニマ、魂である[Ariane est l'Anima, l'Ame](ドゥルーズ『ニーチェと哲学』1962年)

愛される者は、ひとつのシーニュ、《魂》として現れる[L'être aimé apparaît comme un signe, une « âme»](ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1964年)


折口信夫は恋をアニマ乞ひとした。


こひは魂乞ひの義であり、而もその乞ひ自体が、相手の合意を強ひて、その所有する魂を迎へようとするにあるらしい。玉劔を受領する時の動作に、「乞ひ度(わた)す」と謂つた用語例もある。領巾・袖をふるのも、霊ごひの為である。又、仮死者の魂を山深く覓め行くのも、こひである。魂を迎へることがこひであり、其次第に分化して、男女の間に限られたのが恋ひであると考へてゐる。うたがきの形式としての魂ごひの歌が、「恋ひ歌」であり、同時に、相聞歌である。(折口信夫「日本文学の発生」)


伊東静雄は〈(私の魂)といふことは言へない/しかも(私の魂)は記憶する〉と歌った。


プルーストはこう書いた。


私はケルト人の信仰をいかにももっともだと思う、それによると、われわれが亡くした人々の魂は、何か下等物、獣とか植物とか無生物とかのなかに囚われていて[les âmes de ceux que nous avons perdus sont captives dans quelque être inférieur, dans une bête, un végétal, une chose inanimée]、われわれがその木のそばを通りかかったり、そうした魂がとじこめられている物を手に入れたりする日、けっして多くの人々には到来することのないそのような日にめぐりあうまでは、われわれにとってはなるほど失われたものである。ところがそんな日がくると、亡くなった人々の魂はふるえ、われわれを呼ぶ、そしてわれわれがその声をききわけると、たちまち呪縛は解かれる。われわれによって解放された魂は、死にうちかったのであって、ふたたび帰ってきてわれわれとともに生きるのである。[Délivrées par nous, elles ont vaincu la mort et reviennent vivre avec nous. ](プルースト『スワン家の方へ』)




フロイトにとって芸術家の起源はアニミストである。


われわれは、観念の万能とアニミズム的思考方法を確認させるようにな印象に「不気味なもの」という性格を一般にあたえているように思われる。Es scheint, daß wir den Charakter des »Unheimlichen« solchen Eindrücken verleihen, welche die Allmacht der Gedanken und die animistische Denkweise überhaupt bestätigen wollen, (フロイト『トーテムとタブー』第三論文「アニミズム・呪術および観念の万能」第3章)


呪術、すなわちアニミズム的思考方法を支配している原理は、観念の万能である。[das Prinzip, welches die Magie, die Technik der animistischen Denkweise, regiert, ist das der „Allmacht der Gedanken". ]〔・・・〕


現代文化においても、ある分野だけは「観念の万能」Allmacht der Gedanken が維持されている。つまり芸術の分野である。願望に胸をこがす人間が満足に似たものを創りだし、こうした行為がーー芸術的錯覚[künstlerischen Illusion のおかげでーーまるで実在のものででもあるかのように感情的効果を生みだすということは、芸術においてのみ行われることである。人が芸術の魔術[Zauber der Kunst]を語ったり、芸術家を魔法使いに比べたりするのも、もっともなことである。しかしこの比較はおそらく、それが要求する以上に意味ぶかいものなのであろう。芸術はむろん芸術のための芸術[l'art pour l'art として始まったのではなく、もともと、今日ではその大部分が消滅してしまった諸傾向に奉仕するものであった。これらの傾向の中には、さまざまの呪術的意図[magische Absichten]概念想像されるのである。(フロイト『トーテムとタブー』第三論文「アニミズム・呪術および観念の万能」第3章、1913年)



もっとも日本的アニミズム文化についてはここでは判断を保留しておくことにする。


先ほど掲げた中井久夫の「日本人の宗教」(2007年)とは別に、同じ表題の「日本人の宗教」(1985年)には、《アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい》とある。


日本では、・・・宗教が行方不明になりかけていて、無宗教だという意見が高度成長期時代まであった。〔・・・〕


しかし、強烈な宗教的情熱を最近目の当たりにした。偶像崇拝どころではない。最近の航空機事故は悲惨であったが、その処理も私を大いに驚かせた。いかなる死体のはしきれをも同定せずにはおかないという気迫が当然とされ、法医学の知識が総動員されて徹底的に実行された。こういうことは他国の事故では起こらない。海底の軍艦の遺骨まで引き揚げようとするのは我が国以外にはあるまい。


死者の遺体はーー特に悲惨な死を遂げた人の遺体はーーただの物ではなくて、それは火できよめて自宅、せめて自国まで持ってこないと「気がすまない」とはどういうことだろうか。一つは、定義はほんとうにむつかしそうだが、「アニミズム」と呼ぶのが適当な現象である。もう一つは、国なり家族なり、とにかく「ウチ」にもたらさないと「ゴミ」あつかいをしていることになるということである。「ゴミ」の定義は「ソト」にあるものだ(「ひとごみ」とはよく言ったものだ)。そうしておくとどうも「気がすまない」。「気がすまない」のは強迫的心理であり、それを解消しようとする行為が強迫行為である。そういう意味では、神道の原理が「きよら」であり、何よりも生活を重んじるのとつながる。〔・・・〕


アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。イスラエルと日本の合同考古学調査隊が大量の不要な遺骨を運び出す羽目になった時、その作業をした日本隊員は翌日こぞって発熱したが、イスラエル隊員は別に何ともなかったそうである。(中井久夫「日本人の宗教」1985年初出『記憶の肖像』所収)



……………


最後に本居宣長の神の定義を掲げておこう。


さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云ふなり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり、


さて人の中の神は、先づかけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐すこと、申すもさらなり、其は遠つ神とも申して、凡人とは遥に遠く、尊く可畏く坐しますが故なり、かくて次々にも神なる人、古も今もあることなり、又天の下にうけばりてこそあらね、一國一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし、


さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代とは云なり、又人ならぬ物には、雷は常にも鳴る神神鳴りなど云へば、さらにもいはず、龍樹靈狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり、(中略)又虎をも狼をも神と云ること、書紀万葉などに見え、又桃子(もも)に意富加牟都美命((おおかむつみのみこと)と云名を賜ひ、御頸玉(みくびたま)を御倉板擧(みくらたなの)神と申せしたぐひ、又磐根木株艸葉(いわねこのたちかやのかきば)のよく言語したぐひなども、皆神なり、さて又海山などを神と云ることも多し、そは其の御霊の神を云に非ずて、直に其の海をも山をもさして云り、此れもいとかしこき物なるがゆゑなり、)


抑迦微は如此く種々にて、貴きもあり賤しきもあり、強きもあり弱きもあり、善きもあり悪きもありて、心も行もそのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば(貴き賤きにも、段々多くして、最賤き神の中には、徳すくなくて、凡人にも負るさへあり、かの狐など、怪きわざをなすことは、いかにかしこく巧なる人も、かけて及ぶべきに非ず、まことに神なれども、常に狗などにすら制せらるばかりの、微(いやし)き獣なるをや、されど然るたぐひの、いと賤き神のうへをのみ見て、いかなる神といへども、理を以て向ふには、可畏きこと無しと思ふは、高きいやしき威力の、いたく差(たが)ひあることを、わきまへざるひがことなり、)大かた一むきに定めては論ひがたき物になむありける(本居宣長『古事記伝』三)