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2021年7月25日日曜日

鎖と不死の生

 

フロイトは1920年、はじめて死の欲動概念を提出してそれを説明するなかで次のように書いた。


生命ある物質は、死ぬ部分と不死の部分とに分けられる[die Unterscheidung der lebenden Substanz in eine sterbliche und unsterbliche Hälfte her]〔・・・〕胚細胞は潜在的に不死である[die Keimzellen aber sind potentia unsterblich ](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


ごく最近気づいたのだが、この思考は1914年のナルシシズム論に既にある。そこでは、鎖[Kette]、遺伝形質(胚原質[Keimplasma])、不死の実体[unsterblichen Substanz]という語を口にしているのである。


個人は現実的には二重の存在をいとなんでいるのであって、自己目的であると同時に鎖の一環でもあり、この鎖[Kette]のために自己の意志に反し、または自己の意志をもたずに奉仕している。個人は自分ではセクシャリティを自己の意図の一つであると考えているが、見方を変えれば、個人は自己の遺伝形質(胚原質Keimplasma)の付属物であるにすぎず、このもののために自分の力を快楽につられて捧げているのであり、あるーーおそらくはーー不死の実体[unsterblichen Substanz]を担っている死すべき者であって、ちょうど家督相続人が自分よりも長持ちのする世襲財産を一時的に所有しているようなものなのである。

Das Individuum führt wirklich eine Doppelexistenz als sein Selbstzweck und als Glied in einer Kette, der es gegen, jedenfalls ohne seinen Willen dienstbar ist. Es hält selbst die Sexualität für eine seiner Absichten, während eine andere Betrachtung zeigt, daß es nur ein Anhängsel an sein Keimplasma ist, dem es seine Kräfte gegen eine Lustprämie zur Verfügung stellt, der sterbliche Träger einer – vielleicht – unsterblichen Substanz, wie ein Majoratsherr nur der jeweilige Inhaber einer ihn überdauernden Institution.〔・・・〕


(そして)セクシャリティの諸作用をいとなみ、個人の生命を種の生命へと引きつづき媒介してゆくものはいくつかの特殊な物質と化学的な過程である、ということが蓋然的なものになってくる。welche die Wirkungen der Sexualität ausüben und die Fortsetzung des individuellen Lebens in das der Art vermitteln. Dieser Wahrscheinlichkeit tragen wir Rechnung, indem wir die besonderen chemischen Stoffe durch besondere psychische Kräfte substituieren. 


(このように)リビドー理論は、すくなくとも心理学的な基礎のうえに立ってはいるが、根本的には生物学によって支えられている。die Libidotheorie, zum wenigsten auf psychologischem Grunde ruht, wesentlich biologisch gestützt ist. (フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)



ーー鎖[Kette]という語によって仏教的な「輪廻」を思い起こす人もいるだろうが、それはここでは触れない。


ところで、上のフロイトはニーチェにあると言ってもよい、「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner]」と言ったニーチェ、「すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ. Alle Dinge sind verkettet, verfädelt, verliebt,]」と言ったニーチェに。


十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放[letzten Befreiung と非責任性[Unverantwortlichkeit への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)


おまえたちは、かつて悦 Lust にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」と言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。Sagtet ihr jemals Ja zu Einer Lust? Oh, meine Freunde, so sagtet ihr Ja auch zu allem Wehe. Alle Dinge sind verkettet, verfädelt, verliebt, —〔・・・〕


いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――— Alles von neuem, Alles ewig, Alles verkettet, verfädelt, verliebt, oh so liebtet ihr die Welt, —](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第10節、1885年)



ニーチェの思考自体、カール・ケレーニイに依拠すれば、古代ギリシアにある。


ゾーエー Zoë はすべての個々のビオス Bios をビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。zoë is the thread upon which every individual bios is strung like a bead, and which, in contrast to bios, can be conceived of only as endless. (カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根』1976年)

ゾーエー(永遠の生)は、タナトス(個別の生における死)の前提であり、この死もまたゾーエーと関係することによってのみ意味がある。死はその時々のビオス(個別の生)に含まれるゾーエーの産物なのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス 破壊されざる生の根 1976年)


ニーチェもケレーニイにもディオニュソスに依拠していることになる。ニーチェは次の文で「死の彼岸にある永遠の生」と要約しうることを言っているが、これこそまさに不死の生である。ニーチェの永遠回帰の最も根底にはこの思考があるに違いない。


ディオニュソス的密儀のうちで、ディオニュソス的状態の心理のうちではじめて、古代ギリシア的本能の根本事実はーーその「生への意志[Wille zum Leben]」は、おのれをつつまず語る。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか永遠の生であり、生の永遠回帰である[Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens]。過去において約束され清められた未来である。死の彼岸[über Tod]、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である。生殖による、性の密儀による総体的永生としての真の生である。


このゆえにギリシア人にとっては性的象徴は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。密儀の教えのうちでは苦痛が神聖に語られている。すなわち、「産婦の陣痛Wehen der Gebärerin」が苦痛一般を神聖化し――、一切の生成と生長、一切の未来を保証するものが苦痛の条件となっている・・・


創造の永遠の悦 die ewige Lust des Schaffens があるためには、生への意志[Wille zum Leben]がおのれを永遠にみずから肯定するためには、永遠に「産婦の陣痛」もまたなければならない・・・これら一切をディオニュソスという言葉が意味する。すなわち、私は、ディオニュソス祭のそれというこのギリシア的象徴法以外に高次な象徴法を知らないのである。そのうちでは、生の最も深い本能が、生の未来への、生の永遠性への本能[In ihnen ist der tiefste Instinkt des Lebens, der zur Zukunft des Lebens, zur Ewigkeit des Lebens]が、宗教的に感じとられている、――生への道そのものが、生殖が、聖なる道として感じとられている・・・[-der Weg selbst zum Leben, die Zeugung, als der heilige Weg...](ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第4節『偶像の黄昏』1888年)




そしてこの系譜のなかに、不死の生[vie immortelle]という表現を口にしながら語られたラカンのラメラ神話がある。


このラメラ、この器官、それは実在しないという特性を持ちながら、 それにもかかわらずひとつの器官なのだが それはリビドーである。Cette lamelle, cet organe qui a pour caractéristique de ne pas exister, mais qui n'en est pas moins un organe -[...] c'est la libido. 


リビドー、生の純粋な本能としてのリビドー 、不死の生としてのリビドーは、人が性的再生産の循環に従うことにより、生きる存在から控除される。La libido, […] en tant que pur instinct de vie, […] de vie immortelle[…]  de ce qui est justement soustrait à l'être vivant, d'être soumis au cycle de la reproduction sexuée. (ラカン, S11, 20 Mai 1964

リビドーはラメラである。このラメラは器官であり、話す主体はこの器官の死に至る意味を啓示する特権を持っている。この理由で、すべての欲動は死の欲動なのである。La libido est cette lamelle […] Cette lamelle est organe, […] Le sujet parlant a ce privilège de révéler le sens mortifère de cet organe, […] C'est ce par quoi toute pulsion est virtuellement pulsion de mort. Lacan, E 848, 1964

※より長い引用は➡︎「ラメラ神話


この控除されたリビドーが、ラカンの享楽である。


(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、享楽の控除 (- J) を表すフロイト用語である。le moins-phi (- φ) qui veut dire « castration » , le mot freudien pour cette soustraction de jouissance. (- J) J.~A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009

われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(享楽の控除)の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ». (Lacan, S15, 10  Janvier  1968

享楽は去勢である [la jouissance est la castration](Lacan parle à BruxellesLe 26 Février 1977


ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である[Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011

享楽という語は、二つの満足ーーリビドーの満足と死の欲動の満足ーーの価値をもつ一つの語である[Le mot de jouissance est le seul qui vaut pour ces deux satisfactions, celle de la libido et celle de la pulsion de mort. (Jacques-Alain Miller , L'OBJET JOUISSANCE , 2016/3



フロイトにおいてリビドーは愛の欲動である。


リビドーは愛と要約できる[Libido ist …was man als Liebe zusammenfassen kann. ]〔・・・〕哲学者プラトンのエロスは、その由来や作用や性愛との関係の点で精神分析でいう愛の力 、すなわちリビドーと完全に一致している[Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse]〔・・・〕この愛の欲動を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動と名づける。[Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen. ](フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)


したがってラカンは「死は愛だ」と言った。


(表向きの言説ではなく)フロイトの別の言説が光を照射する。フロイトにとって、死は愛である[Un autre discours est venu au jour, celui de Freud, pour quoi la mort, c'est l'amour. (Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)