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2021年8月1日日曜日

私は病気だ、皆と同じように、超自我をもっているから

 


ラカン派のテーゼ、「症状のない主体はない」というのがある。


症状のない主体はない[il n'y a pas de sujet sans symptôme](コレット・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens , 2011


この症状とは固着である。


固着とは、フロイトが原症状[primal symptoms]と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状のない主体はない」である。( ポール・バーハウ&フレデリック・デクラーク Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq , Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. 2002

症状は固着である[Le symptôme, c'est la fixation (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 - 26/03/2008)


固着とは現実界の症状であり、後年のラカンはサントームと呼んだ。


サントームは後に症状と書かれるものの古い書き方である[LE SINTHOME.  C'est une façon ancienne d'écrire ce qui a été ultérieurement écrit SYMPTÔME. (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)


したがって固着としての原症状はサントームということである。


サントームは固着である[Le sinthome est la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011摘要

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である[Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


より厳密に言えば、「症状のない主体はない」とは、現実界の症状とそれに対する防衛の症状(象徴界+想像界の症状)がない主体はないということである。


我々の全言説は現実界に対する防衛である[tous nos discours sont une défense contre le réel Anna Aromí, Xavier Esqué, XI Congreso, Barcelona 2-6 abril 2018


このところ示してきたように、現実界の症状は、ラカンマテームではS(Ⱥ)と書かれる。


シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される[c'est sigma, le sigma du sinthome, …que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)


かつまた超自我もS(Ⱥ)と書かれる。


S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96


一般の通念に反して、超自我とは固着であり、取り消せない原症状なのである(参照)。


ジャック=アラン・ミレールは、ラカンから引き継いだ最初の年のセミネールで既にこう言っている。


症状の享楽の核が超自我である[La jouissance du symptôme …C'est ce nexus-là qu'on a appelé le surmoi. (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 MARS 1982)


これは「固着の享楽の核は超自我である」と言い換えうる。


ここでの享楽は反復の意味で捉えると理解しやすい。


享楽と反復と手と手を取り合っている[Jouissance et répétition ont partie liée  (François Bony, Jouissance et répétition, 2015)

反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD. Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)


つまり固着の反復の核が、超自我である。

最晩年のラカンが次のように言ったのもこの意味である。


私は病気だ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているから[j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde](Jacques Lacan parle à BruxellesLe 26 Février 1977


すなわち、「私は病気だ。なぜなら、皆と同じように固着の反復を持っているから」である。上に示したように固着はサントームに置き換えてもよい。


ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状(誰もがもっている症状)である[Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé,  (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011




ちなみに最晩年のフロイトは、人間だけでなく高等動物ならみな超自我がある、すなわち固着があると言っている。


心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく仮定される[Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen.] (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. ](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)