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2021年8月2日月曜日

原超自我と母への固着


フロイトにおける「超自我の設置」にかかわる記述をいくらか拾ってみよう。


超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の父母(そして教育者)の後継者・代理人である[Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlun-gen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten](フロイト『モーセと一神教』3.2.4  Triebverzicht, 1939年) 

幼児は、優位に立つ他者を同一化によって自分の中に取り入れる。 するとこの他者は、幼児の超自我になる[das Kind ...indem es diese unangreifbare Autorität durch Identifizierung in sich aufnimmt, die nun das Über-Ich wird ](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)


幼児にとって最初に優位に立つ大他者は、稀な例外を除いて母であるだろう。


全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。〔・・・〕それは、あらゆる力をもった大他者である。[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant](ラカン、S406 Février 1957)


したがって原超自我は母なる超自我である。フロイトは父との同一化とそれに伴う父なる超自我(エディプス的父)を強調したように見える。確かにフロイトは父にこだわり続けた。だが次のような記述がある。


父との同一化と同時に、おそらくはそれ以前にも、男児は、母への依存型の本格的対象備給を向け始める[Gleichzeitig mit dieser Identifizierung mit dem Vater, vielleicht sogar vorher, hat der Knabe begonnen, eine richtige Objektbesetzung der Mutter nach dem Anlehnungstypus vorzunehmen.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」、1921年)


対象備給とあるが、この記述の2年後、対象備給と同一化を等置している。


個人の原始的な口唇期の初めにおいて、対象備給と同一化は互いに区別されていなかった。Uranfänglich in der primitiven oralen Phase des Individuums sind Objektbesetzung und Identifizierung wohl nicht voneinander zu unterscheiden. (フロイト『自我とエス』第3章、1923年)


冒頭に引用したように、この同一化によって超自我が生まれる。


そして原備給の対象は、母の乳房だとされている。


非常に幼い時期に、母への対象備給[Mutter eine Objektbesetzung ]がはじまり、対象備給は母の乳房[Mutterbrust]を出発点とし、アタッチメント型[Anlehnungstypus]の対象選択の原型を示す。Ganz frühzeitig entwickelt es für die Mutter eine Objektbesetzung, die von der Mutterbrust ihren Ausgang nimmt und das vorbildliche Beispiel einer Objektwahl nach dem Anlehnungstypus zeigt; ,(フロイト『自我とエス』第3章、1923年)


備給とは、ーー《備給はリビドーに代替しうる »Besetzung« durch »Libido« ersetzen》]》(フロイト『無意識』1915年)であり、欲動に変えてもよい、《われわれは情動理論 Affektivitätslehre]から得た欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドー[Libido]と呼んでいる》(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、摘要)


そしてこの欲動は超自我の設置に伴い、固着される。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. ](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


こうしてメラニー・クラインとラカンの観点は、よく読めばその近似表現がフロイトにあることが判明する。


私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。したがって超自我の核は、母の乳房である[In my view…the introjection of the breast is the beginning of superego formation…The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951

母の乳房の、いわゆる原イマーゴの周りに最初の固着が形成される。sur l'imago dite primordiale du sein maternel, par rapport à quoi vont se former […] ses premières fixations, (Lacan, S4, 12 Décembre 1956)


ラカンはこのメラニー・クラインを受け入れて次のように言っている。


母なる超自我・太古の超自我[ce surmoi maternel, ce surmoi archaïque]、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我 surmoi primordial]の効果に結びついている。最初の他者の水準において、ーーそれが最初の要求[demandes]の単純な支えである限りであるがーー私は言おう、幼児の欲求[besoin]の最初の漠然とした分節化、その水準における最初の欲求不満[frustrations]において、母なる超自我に属する全ては、この母への依存[dépendance]の周りに分節化される。 (Lacan, S5, 02 Juillet 1958

(メラニー)クラインの分節化は次のようになっている、すなわちモノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[L'articulation kleinienne consiste en ceci :  à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère, (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)


モノ、すなわちーー《モノは母である[das Ding, qui est la mère]》(Lacan, S7, 16 Décembre 1959


フロイトのモノは、ラカン解釈においては何よりもまず超自我なのである。現実界の超自我、これがモノである。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976




さらにこのモノは固着にかかわる(参照)。


ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens(J.-A.MILLER,, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

サントームは固着である[Le sinthome est la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011摘要


以上、原超自我は母なる超自我であり、この超自我は固着に繋がっている。



もっともフロイトには「母の乳房への固着」という表現は直接にはない。主に、より一般化された「母への固着」である。


女への固着(おおむね母への固着)[Fixierung an das Weib (meist an die Mutter)](フロイト『性理論三篇』1905年、1910年注)

おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年)

母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への拘束として存続する[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. ](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)




「母への原固着」という表現もある。


出産外傷[Das Trauma der Geburt]、つまり出生という行為は、一般に「母への原固着」[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、原抑圧[Urverdrängung]を受けて存続する可能性をともなう。これが、原トラウマ Urtrauma]である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)


このフロイトの記述のベースは、フロイトが何度も問い直したオットー・ランクの『出産外傷』、とくにその「女性器への固着」にある。


出生の器官としての女性器の機能への不快な固着は、究極的には成人の性的生のすべての神経症的障害の底に横たわっている[Die unlustvolle Fixierung an diese Funktion des weiblichen Genitales als Gebärorgan, liegt letzten Endes noch allen neurotischen Störungen des erwachsenen Sexuallebens zugrunde](オットー・ランク『出産外傷』Otto Rank "Das Trauma der Geburt" 1924年)