ラカンは、主体は喪われた対象だと言っている。 |
主体はどこにあるのか? われわれは唯一、喪われた対象としての主体を見出しうる。より厳密に言えば、喪われた対象は主体の支柱である。 Où est le sujet ? On ne peut trouver le sujet que comme objet perdu. Plus précisément cet objet perdu est le support du sujet (ラカン, De la structure en tant qu'immixtion d'un Autre préalable à tout sujet possible, ーーintervention à l'Université Johns Hopkins, Baltimore, 1966) |
喪われた対象とはモノのことである。 |
フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste : que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu]〔・・・〕 享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要) |
前回、モノは超自我であり固着であることを示した。 |
とすれば超自我は主体$なのだろうか。 |
超自我は斜線を引かれた主体と書きうる[le surmoi peut s'écrire $ ](J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982) |
この、ラカンから引き継いだ2年目のセミネールでのジャック=アラン・ミレールの発言は、通念からしたらひどく奇妙であるだろう。
ここでいくらか検証してみよう。
ラカンは、フロイトのモノを、最も基本的には、次の語彙と等価なものとした(参照)。
享楽の対象としてのモノは去勢であり、穴(トラウマ)であり、喪失(喪われた対象)である。この四つの語彙は等価である。
ラカンは主体を喪われた対象という以外に穴ともしている。
現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965) |
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主体は欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴である[sujet …que soit ce rond brûlé dans la brousse des pulsions](Lacan E666, 1960) |
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ここでもジャック=アラン・ミレールは、穴としての欲動の藪を超自我に関連づけている。 |
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超自我は欲動の藪と関係がある[le surmoi est en rapport avec la brousse des pulsions. . (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008) |
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さらに主体に関するミレール注釈をいくつか列挙しよう。 |
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斜線を引かれた主体と斜線を引かれた大他者との結びつきがある[conjonction du sujet barré et de l'Autre barré ](J.-A.Miller, 1, 2, 3, 4, COURS DU 6 FEVRIER 1985 ) |
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斜線を引かれた大他者とは穴のことである。 |
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穴の最も深淵な価値は、斜線を引かれた大他者である[le trou,…c'est la valeur la plus profonde, si je puis dire, de grand A barré. ](J.-A. MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001) |
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斜線を引かれた主体は穴である以外に、斜線を引かれた享楽、去勢とも等置している。 |
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私は、斜線を引かれた享楽を斜線を引かれた主体と等価とする[le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $ ] (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008) |
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私は、斜線を引かれた主体を去勢と等価だと記す。$ ≡ (- φ) [j'écris S barré équivalent à moins phi : ≡ (- φ)] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XV, 8/avril/2009) |
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さらに主体は対象aだともしている。 |
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ラカンは言っている、対象aは大他者のトポロジー的構造であり、対象aは主体自体だと[Lacan peut dire du petit a qu'il est la structure topologique du grand Autre, et dire ensuite que le petit a est le sujet lui-même.](J.-A. Miller, UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE, 2006/3) |
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これはラカンの次の発言に基づいている。 |
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この対象aは、主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている[ce (a), comme essentiel au sujet et comme marqué de cette étrangeté,] (Lacan, S16, 14 Mai 1969) |
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モノは対象a=異者であり、これは喪われた対象であるゆえ、冒頭の近くに示した図と同じである。 |
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セミネールVIIに引き続く引き続くセミネールで、モノは対象aになる[dans le Séminaire suivant(le Séminaire VII), das Ding devient l'objet petit a. ]( J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 06/04/2011) |
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フロイトはモノを異者とも呼んだ[das Ding…ce que Freud appelle Fremde – étranger. ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006) |
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つまりここでも主体$はモノだということになる。 以上、こうなる。
超自我はフロイトの定義ではエスの代理人である。
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モノ=異者(異者としての身体)、そして《超自我と原抑圧との一致がある[il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire]》(J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)を前提に[参照]、次の文を読もう。
原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung… Mit dieser ist eine Fixierung gegeben…wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, ](フロイト『抑圧』1915年、摘要) |
(原)抑圧されたものは異物(異者としての身体)として分離されている[Verdrängten … sind sie isoliert, wie Fremdkörper] 〔・・・〕抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う[Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要) |
超自我は固着を通して暗闇に蔓延るのである。あるいは主体$はエスに蔓延る。 やはりここでニーチェを引用するようどうしても促される。 |
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。 ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが? - nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht! - hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年) |
何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人が怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。 きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻[stillste Stunde] がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人[meiner furchtbaren Herrin]の名だ。 ……そのとき、声なき声 [ohne Stimme ]がわたしに語った。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない[Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1884年) |
このわたしの恐ろしい女主人[meiner furchtbaren Herrin]が超自我でなくてなんだろう?
ーー《超自我のあなたを遮断する命令の形態は、声としての対象aの形態にて現れる[la forme des impératifs interrompus du Surmoi …apparaît la forme de (a) qui s'appelle la voix].》 (ラカン, S10, 19 Juin 1963) さらにーー、 |
不気味なものは人間の実在であり、それは意味もたず黙っている[Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第1部「序説」1883年) |
未来におけるすべての不気味なもの、また過去において鳥たちをおどして飛び去らせた一切のものも、おまえたちの「現実」にくらべれば、まだしも親しみを感じさせる[Alles Unheimliche der Zukunft, und was je verflogenen Vögeln Schauder machte, ist wahrlich heimlicher noch und traulicher als eure "Wirklichkeit". ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第2部「教養の国」1884年) |
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不気味なものは秘密の親密なものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[daß Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist,] (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第3章、1919年) |
不気味なものとして感知されるものは、内的反復強迫を思い起こさせるものである。dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年) |
モノ=超自我=異者=不気味なものである。多くのフロイト主要概念がニーチェにあることがおわかりだろうか。 ニーチェにほとんど触れなかったラカンは隔世遺伝である。 |
モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974) |
そしてこの異者こそ主体$である。 |
偶然の事柄がわたしに起こるという時は過ぎた。いまなおわたしに起こりうることは、すでにわたし自身の所有でなくて何であろう。Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was _könnte_ jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre! つまりは、ただ回帰するだけなのだ、ついに家にもどってくるだけなのだ、ーーわたし自身の「おのれ」が。ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle. (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと Der Wanderer」1884年) |
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エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
…………… |
なおサロメはとても早い時期に(1894年)、ニーチェの永遠回帰は不気味なものの仮面だと言っている。 |
私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面であることを暗示している。(ルー・アンドレアス・サロメ「作品のなかのニーチェ」1894) |
Unvergeßlich sind mir die Stunden, in denen er ihn mir zuerst, als ein Geheimnis, als Etwas, vor dessen Bewahrheitung ... ihm unsagbar graue, anvertraut hat: nur mit leiser Stimme und mit allen Zeichen des tiefsten Entsetzens sprach er davon. Und er litt in der Tat so tief am Leben, daß die Gewißheit der ewigen Lebenswiederkehr für ihn etwas Grauen-volles haben mußte. Die Quintessenz der Wiederkunftslehre, die strahlende Lebensapotheose, welche Nietzsche nachmals aufstellte, bildet einen so tiefen Gegensatz zu seiner eigenen qualvollen Lebensempfindung, daß sie uns anmutet wie eine unheimliche Maske.(Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894) |
上に「不気味なものは内的反復強迫」をもたらすものだとするフロイトを引いたが、これこそ永遠回帰であり、さらにまた死の欲動である。 |
同一の体験の反復の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは(ニーチェの)同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年) |
われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) |
さらにまたこの永遠回帰こそ、「自己固有の出来事=自己身体の出来事」というトラウマへの固着と反復強迫である。 |
人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年) |
トラウマは自己身体の出来事 もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。〔・・・〕 このトラウマの作用は、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]と「反復強迫[Wiederholungszwang]の名の下に要約される。それは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印[unwandelbare Charakterzüge]と呼びうる。[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
こうしてエスだけでなく、モノ(異者・不気味なもの)=超自我=固着さえニーチェにあると言いうる。
なお「反復強迫=永遠回帰=死の欲動」とは、フロイトにとって、固着を通した無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es](1926)のことである。
ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我と呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」と。Ich meine G. Groddeck, der immer wieder betont, daß das, was wir unser Ich heißen, sich im Leben wesentlich passiv verhält, daß wir nach seinem Ausdruck » gelebt« werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächten5. この力をグロデックに用語に従ってエスと名付けることを提案する。Ich schlage vor,[...] nach Groddecks Gebrauch das Es. グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがとてもしばしば使われている。 Groddeck selbst ist wohl dem Beispiel Nietzsches gefolgt, bei dem dieser grammatikalische Ausdruck für das Unpersönliche und sozusagen Naturnotwendige in unserem Wesen durchaus gebräuchlich ist(フロイト『自我とエス』第2章、1923年) |
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そしてモノとは超自我=固着でありながら、事実上、フロイトのエス、いやニーチェのエスのことであり(超自我=原抑圧=固着によってエスに置き残されるモノ=異者)、これがラカンの現実界である。
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。〔・・・〕フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009) |