このブログを検索

2021年8月3日火曜日

これはよくないね、現代のポリコレ風土、DSM風土においては


症状の享楽は自体性愛的である。この症状の核が超自我である[La jouissance du symptôme est auto-érotique. …C'est ce nexus-là qu'on a appelé le surmoi. (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 MARS 1982)


ーーこれはよくないね、少なくも現代のポリコレ風土においては。

自閉症概念の創出者ブロイラーはこう言ってるからな。


自閉症はフロイトが自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものである[Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. ](オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien1911年)


これを受け入れれば、自閉症の核は超自我だということになる。で、超自我は母なる超自我[参照]であり、自閉症の核は母ということになる。よくないよ、これは。悪評高いカナーの冷蔵庫マザーみたいじゃないか。


ほとんどの患者は、親の冷酷さ・執拗さ・物質的欲求のみへの機械仕掛式配慮に最初から晒されていた。彼らは、偽りのない思いやりと悦びをもってではなく、断片的パフォーマンスの視線をもって扱われる観察と実験の対象だった。彼らは、解凍しないように手際よく「冷蔵庫」のなかに置き残されていた。(レオ・カナー、In a public talk quoted in Time magazine in 1948


でもジャック=アラン・ミレールは首尾一貫してんだ、1982年と2007年のあいだだってこうだ。


超自我は斜線を引かれた主体と書きうる[le surmoi peut s'écrire $  (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)

自閉症は主体の故郷の地位にある[l'autisme était le statut natif du sujet, (J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)


そもそもラカンの享楽とは自閉症的だからな


享楽の核は自閉症的である[Le noyau de la jouissance est autiste   (Françoise Josselin『享楽の自閉症 L'autisme de la jouissance2011)

享楽は自閉症的である、それは両性にとってである。主体の根源的パートナーは孤独である。La jouissance est autistique, tant du coté féminin que masculin. Le partenaire fondamental du sujet reste donc la solitude. (Bernard Porcheret, LE RESSORT  DE L'AMOUR ,2016)


享楽の別名は自己身体の享楽であり、これがフロイトの自体性愛(ブロイラーの自閉症)だ(現在のDSMで捏ね回した「自閉症」とは異なるのだろうけど)。


自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. ](MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 2000

享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである[jouissance, qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme.](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011


で、やっぱりこの自閉症=自体性愛は、超自我による去勢にかかわるんだな。


享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。根底は、去勢と呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が自己身体の享楽の徴である。[La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même, et c'est cette jouissance foncièrement auto-érotique qui est marquée de l'obstacle. Au fond, ce qu'on appelle la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. ] J.-A. Miller,Introduction à l'érotique du temps, 2004)


超自我は、去勢と相関関係がある[le surmoi,   corrélat de la castration   (Lacan, S20, 21 Novembre 1972 )

享楽は去勢である[la jouissance est la castration](Lacan parle à BruxellesLe 26 Février 1977


というわけで、ラカン的にはやっぱり自閉症は超自我のやまいということになる。


最後に以前拾った二文を貼りつけておこう。


自閉症が問題になり始めた頃、米国では精神分析の考えをもとにした力動精神医学が力をもっており、べッテルハイムなどの影響で、自閉症は両親との関係による後天的な要因によって引き起こされると考えられていました。それが現在では、世界中の殆どすべての精神科医、臨床心理士は、自閉症の原因は遺伝子的傷害または何らかの脳の損傷だと考えています。生物学的な原因を主張する理論は様々なものがありますが、実は多様な形態をとる自閉症を十分に説明できるような理論はまだ見いだされていません。それでも遺伝子による説明などの科学的な理論が受け入れられるのは、現代の精神医学理論の趨勢をなしている生理、生物学的選択という方向性に則ったものだからです。


生物学的な原因論が採用されるもう一つの理由は、子どもが自閉症となることによって両親がその責を問われることを避けるという思惑からです。親の間違った育て方によって子どもが自閉症になったと言われれば、両親は子どもにたいして過大な罪責観を負うことになるでしょう。しかしそこに生物学的な理由が置かれればもはや誰にも責任はなくなり、親の養育法にたいする非難もなくなります。〔・・・〕


現代のこうした自閉症についての客体的、科学的な原因論にたいして、精神分析は主体的な要因を導入します。先天的、生物学的な原因を否定するわけではありませんが、たとえ 生物学的な要因があったとしても、そこに何らかの主体的な要素も関与しているということです。つまり、自閉症には主体的な選択という科学的には考えられない要因も考察されなければならないと考えるのです。(向井雅明『自閉症について』 2016)


現代の不幸だなあ、なんでも遺伝にしちまうなんて。


自閉症は統合失調症的気質の基本的な性質である。それは合併して明らかな統合失調症にもなりうる。自閉症児は、もしその子が適切な治療を受け、家族からもフォローが得られるのであれば(しばしば家族はこの症候群の原因でもある。特に家族が子供に度の過ぎたことをしたり、過剰に完璧主義的な育て方をした場合にはそうである)多かれ少なかれ完全に治療可能である。だが、たとえその問題が解消されようとも、その子供はそれでもなお普通に落ち着いた人間関係を構築することが困難である。(Rizzoli-Larousse Encyclopedia 2001年版)


なにはともあれ、DSMってのはつぶしたほうがいいよ、たぶんね。


と記したら思い出したな、いつものごとく芋蔓式引用連鎖になっちまうよ


1980年に米国でDSM‐Ⅲが公刊されると、この黒船によって、日本の精神医学はがらりと変わった。本質的にクレペリン精神医学によって立ち、クルト・シュナイダーK.schneiderの操作主義とエルンスト・クレッチマーE.Kretschmerの多次元診断によって補強されたDSM体系は、日本の精神医学の風土を変えた。(中井久夫『関与と観察』)


英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)は最近、精神医学の正典的 DSM の下にある疾病パラダイムを公然と批判している。その指弾の標的である「精神障害 mental disorder」の診断分類は、支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している、と。それは、科学的に「客観的」知に根ざした判断を表すことからほど遠く、その診断分類自体が、社会的・経済的要因の症状である。(Bert Olivier, Capitalism and Suffering, 2015)


臨床的にはほとんど無知のボクのベースは、中井久夫とポール・バーハウなんだ。


精神医学診断における新しいバイブルとしての DSM(精神障害の診断と統計の手引き)。このDSM の問題は、科学的観点からは、たんなるゴミ屑だということだ。あらゆる努力にもかかわらず、DSMは科学的たぶらかしに過ぎない奇妙なのは、このことは一般的に知られているのに、それほど多くの反応を引き起こしていないことである。われわれの誰もが、あたかも王様は裸であることを知らないかのように、DSM に依拠し続けている。


DSMの診断は、もっぱら客観的観察を基礎とされなければならない。概念駆動診断conceptually-driven diagnosis は問題外である。結果として、どのDSM診断も、観察された振舞いがノーマルか否かを決めるために、社会的規範を拠り所にしなければならない。つまり、異常 ab – normal という概念は文字通り理解されなければならない。すなわち、それは社会規範に従っていないということだ。したがって、この種の診断に従う治療は、ただ一つの目的を持つ。それは、患者の悪い症状を治療し、規範に従う「立派な」市民に変えるということだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy, 2007


怠惰な精神は規格化を以て科学化とする。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法とは何か」2002年初出『徴候・記憶・外傷』所収)


おっと、バルトの声がするな。


いつもニーチェを思う。私たちは、繊細さの欠如によって科学的となるのだ[Toujours penser à Nietzsche : nous sommes scientifiques par manque de subtilité. ](『彼自身によるロラン・バルト』1975年)



以上、無知の者の思い出しメモでした。