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2021年9月16日木曜日

いないいないばあ遊びと剰余価値

 前回引用した、ラカンの剰余享楽、マルクスの剰余価値、フロイトの快の獲得の等価性を指摘するラカンの発言を再掲することからまず始める。


◼️剰余享楽a=剰余価値

装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ]〔・・・〕


剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン, Radiophonie, AE434, 1970

永遠にマルクスに声に耳を傾けるこの貝殻[Lacoquille à entendre à jamais l'écoute de Marx……この剰余価値は経済が自らの原理を為す欲望の原因である。拡張生産の、飽くことを知らない原理、享楽欠如[manque-à-jouir の原理である[la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.](Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)


◼️剰余享楽=快の獲得

フロイトの快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」のことである。[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ». ]〔・・・〕


剰余享楽は可能な限り少なく享楽すること最小限をエンジョイすることだ。[« plus-de jouir ».  …jouir le moins possible  …ça jouit au minimum ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973



前回はこう示して、最晩年のフロイトの「快の獲得=おしゃぶりの快」とする文を掲げたのだが、ここではフロイトにおける別の「快の獲得」の叙述を掲げる。名高い糸巻き遊びーー「いないいないばあ遊び(fort-da)」をめぐる箇所に「経済論的」という言葉を使いながら、三箇所「快の獲得」Lustgewinnが出現する。ここにはある意味で、フロイトラカン理論のエキスのひとつがある。


小児の遊戯に関する諸学説は、子供たちの遊戯の動機を推測しようとつとめているが、そのさい経済論的観点[ökonomische Gesichtspunkt]、つまり快の獲得[Lustgewinnにたいする考慮に重きをおいていない。私は、これらの現象をことごとく究めようと考えたのではないが、あるめぐまれた機会を存分に利用して、生後一年六ヵ月の男児が最初に自分でみつけた遊戯を、明らかにしようと思った。それは一時的な観察以上のものであった。なぜならば、私は数週間にわたって、子供やその両親とひとつ屋根の下に暮らしたのであり、たえず繰りかえされている謎めいた行為の意味が私に分かるまで、かなりながく観察をつづけたからである。


その子供は、知的な発達の点ではけっして早熱ではなかった。生後一年半で、ようやく、ごくわずかの明瞭な言葉をしゃべり、そのほかは身近の者だけに理解される、いくつかの意味のある音声をあやつっていた。だが、その子は両親と一人っきりの女中になじんでいたし、「お行儀のよい」性質のせいでほめられていた。夜間、両親を困らせもせず、いいつけをよくまもっていろいろな道具をいじったりしないし、禁じられた部屋へ行ったりしなかった。とりわけ、母親が何時間も傍にいないことがあっても、けっして泣いたりはしなかった。といっても、この子は母親がじぶんの乳でそだてたうえに、他人の手をいっさい借りずに世話してきたので、心から母親になついていた。


この感心な子が、ときおり困った癖を現わしはじめた。つまり、何でも手に入るこまごましたものを、部屋のすみや寝台の下などに、遠くほうり投げるので、そのおもちゃを捜し集めるのがひと苦労になるしまつだったのである。そのさい、子供は興味と満足の表情を表わして、高い、長く引っぱった、オーオーオーオ[o-o-o-o ]という叫び声を立てた。母親と私の一致した判断によるとそれは間投詞ではなくて、「いない」fortの意味であった。私はついに、それは一種の遊戯であって、自分のおもちゃを、みな、ただ「いない、いない」fortsein 遊びにだけ利用していることに気づいた。


ある日、私はこの見解をたしかめる観察をした。子供は、ひもを巻きつけた木製の糸巻きをもっていた。子供には、糸巻きを床にころがして引っぱって歩くこと、つまり、車ごっこをすることなどは思いつかず、ひもの端をもちながら蔽いをかけた自分の小さな寝台のへりごしに、その糸巻きをたくみに投げこんだ。こうして糸巻きが姿を消すと、子供は例の意味ありげな、オーオーオーオをいい、それからひもを引っぱって糸巻きをふたたび度台から出し、それが出てくると、こんどは嬉しげな「いた」Daという言葉でむかえた。これは消滅と再来[Verschwinden und Wiederkommen]を現わす完全な遊戯だったわけである。そのうち、たいていは前者の行為しか見ることができなかった。第二の行為にいっそう大きな快[größere Lust ]がともなったのは疑いないのだが、第一の行為がそれだけでも倦むことなく繰りかえされたのである。

こうなれば遊戯の意味は、ほぼ解かれたもおなじである。それは子供のみごとな躾の効果と関係があった。つまり母が立ち去るのを、さからわずにゆるすという欲動断念(欲動満足に関する断念)[Triebverzicht (Verzicht auf Triebbefriedigung)]を子供がなしとげたことと関係があった。子どもは自分の手のとどくもので、同じ消失と再来[Verschwinden und Wiederkommen]を上演してみて、それでいわば欲動断念を埋め合わせた[entschädigte」のである。


この遊戯を情動の面から評価[affektive Einschätzung]するさい、子供がみずから案出したのか、それとも何かに誘発[Anregung]されてわがものにしたのかは、むろん問題ではない。われわれの関心は、他の一点にむけられるであろう。母が立ち去ってしまうこと[Fortgehen der Mutter ]は、子供にとって好ましかったはずはなく、またどうでもよかったこととも考えられない以上、子供が苦痛な体験を遊戯として反復することは、どうして快原理に一致するのであろうか[Wie stimmt es also zum Lustprinzip, daß es dieses ihm peinliche Erlebnis als Spiel wiederholt?]。消滅はよろこばしい再出現の前提条件として演じられるのに相違なく、再出現にこそ本来の遊戯の目的があったはずだ、と答えたくなるかもしれない。しかし、最初の行為、つまり出発が単独で遊戯になって演出され、しかもそれが、快い結果にみちびく完全形よりも、比較にならないほどたびたび演じられたという観察は、その答に矛盾することになるだろう。


このようなただ一つだけの場合の分析から、確実な結論はみちびけない。しかし、偏見なしに観察すれば、子供は別な動機から自分の体験を遊戯にしたてたのだという印象をうける。子供はこの場合、受動的だったのであって、いわば体験に襲われたのであるが、いまや能動的な役割に身を置いて、体験が不快であったにもかかわらず、これを遊戯として反復しているのである[Es war dabei passiv, wurde vom Erlebnis betroffen und bringt sich nun in eine aktive Rolle, indem es dasselbe, trotzdem es unlustvoll war, als Spiel wiederholt. ]。


この志向は、記憶そのものが快に充ちていたかどうかには関わりのない、支配欲動[Bemächtigungstrieb]に帰することもできるかもしれない。しかしまた、別の解釈を試みることもできる。見えなくなるように、物を投げすてることは、子供のもとから立ち去った母親にたいする、日ごろは禁圧された復讐欲動[Racheimpulses]の満足でもありうる。さあ、立ち去れよ、お母さんなんかいらない、ぼくがお母さんをあっちへやっちゃうんだ、という反抗的な意味をもっているのかも知れないのだ[ Das Wegwerfen des Gegenstandes, so daß er fort ist, könnte die Befriedigung eines im Leben unterdrückten Racheimpulses gegen die Mutter sein, weil sie vom Kinde fortgegangen ist, und dann die trotzige Bedeutung haben: »Ja, geh' nur fort, ich brauch' dich nicht, ich schick' dich selber weg.]。


私が最初の遊戯を観察したときは、生後一年半だったその子は、一年ののちに、しゃくにさわっていた玩具をいつも床に投げつけては「ちぇんちょう(戦争)に行っちゃえ!」»Geh' in K(r)ieg!« といっていた。そのころ子供は、家にいない父親が戦争に行っているのを聞かされていた。そして、父親がいないのを少しもさびしがらず、かえって母親の独り占め[Alleinbesitz der Mutter]を邪魔されたくないらしい明白な徴候を示した。われわれは、他の子供たちについても、彼らが同様の敵意にみちた興奮[ähnliche feindselige Regungen ]を、人間のかわりに物を投げだすことによって、表現することができるのを知っている。すると、何か印象的なものを心理的に加工して、完全にわがものにする衝動が、一次的に、快原理から独立して発現しうるものかどうかという疑いが湧いてくる。しかし、ここで論議された例では、この支配衝動が不快な印象を遊戯の中に反復したのは、この反復に、種類がちがってはいるが、ある直接的な快の獲得[direkter Lustgewinn が結びついているからこそであろう。


これ以上小児の遊戯を追求しても、二つの見解の取捨選択をきめるには役立たない。子供たちは、生活のうちにあって強い印象をあたえたものを、すべて遊戯の中で反復すること、それによって印象の強さをしずめて、いわば、その場面の支配者になることは、明らかである[daß die Kinder alles im Spiele wiederholen, was ihnen im Leben großen Eindruck gemacht hat, daß sie dabei die Stärke des Eindruckes abreagieren und sich sozusagen zu Herren der Situation machen. ]。


しかしこの反面、彼らの遊戯のすべてが、この彼らの年代を支配している願望、つまり大きくなりたい、大人のようにふるまいたいという願望の影響下にあることも充分に明白である。また、体験が不快だからといって、その不快という性格のせいで、体験を遊戯に利用できなくなるとはかぎらないことも観察されている。たとえば医者が子供の喉の中をのぞきこんだり、ちょっとした手術を加えたりすると、この恐ろしい体験は確実にすぐあとの遊戯の内容になるであろうが、そのさい他の理由からの快の獲得[Lustgewinnも見落とすわけにはいかない。子供は体験の受動性から遊戯の能動性に移行することによって、遊び仲間に自分の体験した不快を加え、そして、この代理のものに復讐するのである[Indem das Kind aus der Passivität des Erlebens in die Aktivität des Spielens übergeht, fügt es einem Spielgefährten das Unangenehme zu, das ihm selbst widerfahren war, und rächt sich so an der Person dieses Stellvertreters. ](フロイト『快原理の彼岸』第2章、1920年)




消滅と再来[Verschwinden und Wiederkommen]、受動性と能動性[Passivität und Aktivität]等、ここに症状概念の起源がある。すべて「抑圧されたものの回帰」にかかわる。



それはマルクスの『資本論』冒頭の価値形態論あるいは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』においても同様である。



症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.Laca,.S.18,16 Juin 1971)


みなマルクスが示した症状をこの今もやっている。マルクスの価値形態論を読み込むことにより、われわれは人間の奇妙さが実に鮮明に感知できるようになる筈である。


この症状のひとつを、小林秀雄がすでに早い時期に指摘している。


吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。〔・・・〕


脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)


ーー27歳の小林秀雄である。


マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめねばならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さはみえてこないのである。たとえば、『資本論』をふるまわすマルクス主義者に対して、小林秀雄はつぎのようにいっている。


《商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。》(小林秀雄「様々な意匠」)


むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に、商品は消えうせる。そこにあるのは、商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。言うまでもなく、ただの物は商品ではないが、それなら欲望がある物を商品たらしめるのだろうか。実は、まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)



ーーここで37歳の柄谷は、小林秀雄に依拠しつつ事実上、欲望の原因としてのフェティッシュを語っている。


そして75歳の柄谷はこう書いた。


株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。ヘーゲルの「絶対精神」と同様に株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(柄谷行人、Capital as Spirit, Kojin Karatani, 2016, PDF、私訳)


ラカンのフェティッシュの定義のひとつは次の通り。


対象a、欲望の原因としての対象aがある[l' objet(a), […]comme la cause du désir.]。フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因」としての対象の相で現れる[fétiche comme tel, où se dévoile cette dimension  de l'objet comme cause  du désir]。

フェティッシュとは、ーー靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望される対象ではない。そうではなくフェティッシュは欲望を引き起こす」対象である[Car ne n'est pas le petit soulier, ni le sein, ni quoi que ce soit où vous incarniez le fétiche, qui est désiré, mais le fétiche cause le désir


フェティシストは知っている、フェティッシュは「欲望が自らを支えるための条件」だということを[c'est que pour le fétichiste,  il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition  dont se soutient le désir. ](Lacan, S10, 16 janvier 1963


ーー《私が対象aと呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである。[celui que j'appelle l'objet petit a .. ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche 》(Lacan, AE207, 1966年)



「享楽の対象」は、「防衛の原因」かつ「欲望の原因」としてある。というのは、欲望自体は、享楽に対する防衛の様相があるから。l'objet jouissance comme cause de la défense et comme cause du désir, en tant que le désir lui-même est une modalité de la défense contre la jouissance.(J.-A. Miller, L'OBJET JOUISSANCE, 2016/3)

われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる[quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause. J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011



………………


最後に、より厳密な、剰余享楽をめぐる注釈をいくつか抽出して掲げておく。


ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは穴と穴埋めなのである[petit a est …le trou et le bouchon]。われわれは(穴としての)対象aを去勢を含有しているものとして置く[Nous posons l'objet a en tant qu'il inclut (-φ) (J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)

間違いなくラカン的な意味での昇華の対象は、厳密に剰余享楽の価値である[au sens proprement lacanien, des objets de la sublimation.… : ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir] J.-A. Miller, L'Autre sans Autre, May 2013


フロイト自身の「欲動の昇華」にかかわる記述は➡︎穴の昇華」を参照。


剰余享楽としての享楽は、穴埋めだが、享楽の喪失を厳密に穴埋めすることは決してない[la jouissance comme plus-de-jouir, c'est-à-dire comme ce qui comble, mais ne comble jamais exactement la déperdition de jouissance(J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

反復は享楽回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD.   〔・・・〕フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある。conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD. Lacan, S17, 14 Janvier 1970


仏語の「剰余享楽 le plus-de-jouir」は、「もはやどんな享楽もない」と「もっと享楽を !」[both as "not enjoying any more" and as "more of the enjoyment." ]の両方の意味をもっている。(PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains , 2009

《剰余享楽 plus-de-jouir》のなかの« plus » には二つの意味があり、第一の意味は《もはや享楽は全くない 》である。[Dans « plus-de-jouir », le « plus » a deux sens, et veut d’abord dire « plus du tout » de jouissance(Gisèle Chaboudez, Le plus-de-jouir, 2013)