私はシリア内戦やシリア難民に対するヨーロッパ諸国の対応ぶりを観察して以来、あの連中を、この蛮族め! この成り上がり者め! と罵倒する悪癖をもつようになったのだが、このところ再びその悪癖の強度が高まり、それを抑えるのに苦労している。
冷静になるために(?)二人のオスマン帝国あるいはイスラム学者の論を引用することにする。
◼️「「イスラム世界」と地中海地域」永田雄三(2005年)冒頭より |
はじめに本稿の 『「イスラム世界」と地中海地域』というタイトルから、一般的には、イスラム世界という言葉からアジアが、地中海地域からヨーロッパが連想されるため、アジアとヨーロッパとを対比させていると受けとられる懸念があるが、本稿の主旨は正反対で、この2つの世界あるいは地城が、イスラム教とキリスト教という宗教の違いにもかかわらず、長い間相互に影響しあい、ゆるやかな一体性を保っていたことを指摘するところにある。本稿で言う地中海地域とは、おおまかにいって、アルプス・ピレネー以南のヨーロッパを想定しているが、とりわけ「イスラム世界」のほうは、2つの点で重要な留保をしておきたい。その第一点は、本稿で対象とされるのは、主として西アジア・イスラム世界であり、第二点は、これがより重要なのだが、イスラム文明が7世紀に成立したその当初から古代のオリエントと地中海文明の継承者であるということを強く意識しておきたいと思う。というのも、西アジアの歴史を7世紀の前後で分断してしまうと、古代のオリエントと地中海文明の成果が、19世紀に成立したアルプス以北の北西ヨーロッパを中心とした「ヨーロッパ」史に、「横流し」にされてしまい、なおかつそのかっこつきのヨーロッパ史が「世界史」と同一視されてしまうからである。 |
したがって、本稿の主旨は、このかっこつきのイスラム世界と地中海地域とが相互に影響しあい、浸透し合うひとつの空間を共有していたことを示すことによって、北西ヨーロッパ中心の歴史観を批判し、新しい、真の意味でグローバルな視野を持った世界史構築のための材料を、15・16世紀を中心に、当時の政治文化とルネサンスを題材として提供しようとするものである。この過程で従来の東洋史と西洋史の垣根が取り払われてしまうことはいうまでもない。 |
1. 古代のオリエントと地中海文明の北西ヨーロッパ中心の「世界史」への「横流し」 |
さて、いわゆるヨーロッパ中心史観に対する批判は大変古いテーマで、戦前にまでさかのぼりうるものであるから、これをいまさら取り上げるのは、陳腐といえば陳腐なのだが、私の考えでは、この歴史観は現在もなお厳然として存在しており、場合によってはますます強くなっているとさえいえる。戦前はともかく、私が最初にヨーロッパ中心史観批判に接して強い衝撃を受けたのは、1963年に出版された人文地理学者飯塚浩二の 『東洋史と西洋史のあいだ』である。以下この書物からいくつかの文章を引用する。 |
1) 『このオリエントと不可分の地中海世界の歴史こそ、東洋史と西洋史との「あいだ」にある歴史であり、地中海の北の勢力が地中海を制圧するにいたってから以後の感覚で、オリエント=地中海世界の歴史を、西洋史に、ことにヨーロッパ史の領分に横流しすべきではなかったろう。(中略)これが人文地理の立場からすれば、譲りがたい主張の一つである 』。 |
2)『われわれの直前の時代に、ヨーロッパの西よりの部分に、一口に産業革命といわれる有史以来の画期的な変化が起こった。そしてそのことによって、「世界のヨーロッパ化」といってもいいすぎではない事態が生じた。それに伴って、世界史の扱いにおける、近代ヨーロッパ的見地のいちじるしい越境現象が生じた 』。 |
3)『現在行われている世界史記述の型や用語例が形成されたのも19世紀のことであり、それも不可避的に、ヨーロッパにおいてであったのであるから、既成の型や用語がそれなりに19世紀的=ヨーロッパ的なローカル・カラー(地方色、ただし、ローカルとは単に空間的にばかりでなく、時代的な限定の意味でもいえることである)を帯びていなかったら、かえって不思議といわねばなるまい 』。 |
飯塚浩二はイスラムには言及していないが、これと同じような言説は近年の西洋史家も述べている。たとえば、樺山紘一は1985年につぎのように述べている。『ローマの知的文化の祖であるギリシアは、(中略)全体としては、ヨーロッパの祖源であると観念される。それは、率直にいって誤解というべきであろうが、その後、現在に至るまでのヨーロッパ人の歴史観の基礎をなしている。ここでの古代の復活とは、べつの言い方をすれば、地中海古典文明の「ヨーロッパ」による簒奪であった。ギリシアは「ヨーロッパの古代」という名目をおびて復活されたのである。(中略)ほとんど簒奪というべきだとしたのは、ローマは狭義にイタリアの祖というべきであるし、ギリシア文明を受け継いだのは、ヨーロッパにさきんじて、まずもってピザンティンとイスラムの両世界だったからである 』。 |
ごく最近では、岡崎勝世が2003年に『「ギリシア古典文化」がヨーロッパで歴史記述の対象となったのは18世紀の啓蒙主義からであり、ヨーロッパ世界の「古典」=手本である世界とされるに至ったのは19世紀からでした。(中略)ルネサンスの時代に、その運動に参加した人々の間に、ギリシア文化を自らの祖とする意識があったことは事実です。しかし、これについても、例えば、樺山紘一氏は次のように述べておられます 』といって、樺山紘一のさきの言葉を引用し、さらに『ルネサンス人の古代論では、古代ギリシアの文明を継承発展させてきたのがビザンチン、イスラム両世界であったこと、さらに「ヨーロッパ」がこれを両者から受けとったという事実を、ことさら無視しているからです。そしてこのことは、19世紀のヨーロッパ人の「古典古代」論にもいえるとわたしは考えています。 』と述べて、樺山紘一の言葉に賛意を表明している。(永田雄三「「イスラム世界」と地中海地域」2005年) |
◼️鈴木菫「オスマン帝国の重層性」(2003年)より |
…オスマン帝国は、「トルコ民族国家」よりも「イスラーム帝国」であった。ただ、実体において、やはりトルコ的古層とでも言うべきものと、その上に浸透してきているイスラーム的な部分、二つの部分がムスリムの支配層の中にもあった。ここに、既に文化の重層的構造が見られる。このような重層性はアラブ以外のムスリムのいずれの社会についても強弱の差はあれ見られる。またアラブ化した地域でもそのような重層性は、例えばマグリプでは、ベルベル的なものとアラブ的なものとイスラーム的なものが重なって現れてくる。このような点では、東南アジアのジャワ等もまた似るところがある。〔・・・〕 |
空間としての地域の場合には、少なくとも幾ばくかは、地理的環境と生態系に立脚する部分を持たざるを得ないであろう。そのような地域概念のなかで広大な空間を含むものの好適例として挙げ得るのは、このオスマン帝国と最も関係の深いところでは、ブローデルが構築した地中海世界といったものであると思われる。まさにオスマン帝国はこのブローデルの規定した地中海世界の4分の3を2世紀以上にわたって支配した政治体であった。その意味では、オスマン帝国を地中海世界の4分の3として捉えるということも可能である。ここでは、今度は捉えるほうの視点、概念のほうから見て、重層的に違った概念で捉えていくことが可能な対象でもあると言えるだろう。 |
少しまた横道であるが、より小さめの地域の概念についてもふれたい。オスマン朝に関係する地域の概念としては、中東とバルカンという概念がある。オスマン帝国はまさにこの二つの地域にまたがる、バルカンの全域と中東のほぼ3分の2を支配下に置いていた、その中に組み込んでいた政治体であったわけである。(鈴木菫「オスマン帝国の重層性」2003年) |
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※付記
アレクサンドロス大王がアケメネス帝国 (訳注:ペルシャ王国を紀元前330年に) を滅ぼした後に、 プトレマイオス王朝が、 エジプトを土台にして周辺の小国を統一して大国を築き、一方では、セレウコス王朝(訳注:現シリア)が、アジアにある幾つかの地方帝国を統一して大国を築いた。この二つの大国のどちらにより関心があり、より重要な国であるのかを、 釣り合いのある歴史的見方でもって研究した歴史家はいない。セレウコス王朝は、ギリシャ文明とシリア文明とがあたかも結婚したようなものであり、その愛の棲家と考えてよく、両者の結合でもって巨大な子供が産まれたことになる。 その子供とは、まず初めに都市国家間に連合・共同といった原理としての神性を持つ王権であり、 それは後にローマ帝国の原型となった。そしてミトラ教、キリスト教、マニ教、イスラム教など一連の異なる宗教もこの地域で発生した。 約 2 世紀に亘って続いたセレウコス王朝は、当時の世界において最も創造的な人間活動をした地域であり、その比較的短い存続期間中に勃発した動乱で王朝が滅んだ後も長く人類の運命を形作ったのである。 これと比べてみると、 プトレマイオス帝国におけるギリシャ文明がエジプト文明との結婚は、実り少ないものだった。イシス崇拝とある種の経済的な、 そして社会的な組織をローマ帝国に導入したことによって実際には評価されうるに過ぎなかった。(トインビー『歴史の研究』) |
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アーノルド・J・トインビーは「人類は二つの問題――“悪”と彼は言っているーーを解決するための努力をして成功していない。それは『戦争』と『階級』である」と断言している。彼は不当に無視されているが偉大な歴史学者である。少なくともヘレニズム時代の研究者として第一級であり、「すべての歴史は同時代的である、古代ギリシャであってもアッシリアであっても現代イギリスであっても」という彼の洞察には共鳴する。彼が英国の学界に無視されるようになったのは、ヘレニズムを平和で学術の栄えた時代として内戦を繰り返した古典ギリシャ期よりも称賛したためであることは知られていない。それは西欧文化が自己の正統性を古典ギリシャ・ローマの直系に求めている信仰への挑戦であって、カヴァフィスのようなアレクサンドリアの詩人にして初めて許されることだったのである。(中井久夫「精神医学と階級性について」1991年『記憶の肖像』所収) |
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中世後期の制度、機構、施設でイスラム世界に倣ったものが少なくない。特に大学とルネサンス型宮廷である。イスラム世界の宮廷でカリフがまわりに賢者・学者〔マギ〕を集めたように、ルネサンス期の皇帝、王、大公、僧籍を持つ支配者は占星術師、人文家〔ヒューマニスト〕、芸術家、司書、道化、魔術師、法学者、顧問僧を集めた。これらは全体として一風変わったルースな組織であった。この政府の政策立案の基礎が事実にもとづいたものであることは少なかった。 |
事実を精査しないで、「シンタグマティズム」とでもいうべき原理が拠る傾向が存在した。これは部分から全体を演繹するという思考法、行動方式である。その部分なるものはしばしばかすかな徴候であり、僅少な可能性である。シンタグマティストの精神はそのようなものから一つの全体を紡ぎ出し、この全体が何かの部分であるとされて、さらに別の全体を紡ぎ出す。この過程は非常に思弁的であり、時にはほとんど幻想的であり、場合によってはパラノイア的とさえいいうる。ここで働いている原理は直観であり、アナロジーであり、照応である。シンタグマティズムの源泉としてはアリストテレスに倣ったトーマス・アクィナスの哲学、新プラトン主義があるが、占星術、錬金術などもある。(中井久夫「アジアの一精神科医からみたヨーロッパの魔女狩り」1979 年『徴候・外傷・記憶』所収) |
近代ヨーロッパにおけるアラビア文化の過小評価には、しばしば不当な点がある。たしかに七世紀中葉におけるアレクサンドリアの陥落は古代医学の終焉を告げるものであった。医学の知識の集積所、医師の再生産の中心が失われた重大な事件である。しかし、多くのシリア人、ギリシア人の医師たちは回教世界に迎えられ、まず文化翻訳者となり、引き続き彼らの医学を発展させた。実際八世紀にはじまる彼らの最盛期には、バグダッドをはじめとする主要な都市において完備した精神病院があり、休息、音楽、水浴、体操など、古代世界の精神医療の伝統を継承し、それを発展させた治療が行なわれていた。われわれはその実状を知る位置にはないが、この精神病院はその文化に対応して、オアシスをモデルとして精神的オアシスを指向したのではないかとも読みとれる。ヨーロッパ世界はアラビアの精神病院をモデルとして、まずスペインに同様の施設を建設するが、オアシス的休息の意味は、勤勉を価値とするヨーロッパ文化に継承されなかった。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年) |
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