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2021年9月3日金曜日

オスマン帝国と「帝国の原理」

 


柄谷行人は『世界史の構造』でこう書いている(英語版しか手元にないので私訳する)。

西ヨーロッパとロシアによる侵略に脅かされて、オスマン帝国はその帝国を国民国家へと形成するよう取り組んだが、これは究極的に多種多様な国家群への分割をもたらした。オスマン社会は西洋化を探し求めると同時に、この西洋化に対する抵抗の原理をイスラムのなかに探し求めた。現在支配的なイスラミズムは、おおむねこの時期の産物である。(柄谷行人『世界史の構造』2010年)

Threatened with encroachment by western Europe and Russia, the Ottoman Empire labored to form its empire into a nation-state, but this ultimately resulted in its division into multiple nations. At the same time as Ottoman society sought Westernization, it also sought in Islam a principle for resistance against this. Today's dominant Islamism is largely a product of this period.


上の文には、現在支配的なイスラミズムは、「西洋化に対する抵抗の原理」とあるが、この原理とは異なった、かつてのオスマン帝国の統治形態に、柄谷は事実上、「帝国の原理」ーーこれは、柄谷がカントから導き出した「世界共和国の原理」と相同的であるーー、この近似物を見出そうとしているように見える(以下も私訳だが、英文は一部を除いて割愛する)。


例えば、オスマン帝国は二十世紀に入っても世界帝国として存続したが、その統治は帝国の原理に基づいている[its rule grounded in this principle of empire]。オスマンの司法機関は、被統治者をイスラムに改宗しようとすることは決してなかった。その多様な地域は、自らの特徴ある民族文化・宗教・言語を保存することを許された。時に自らの政治的構造や経済活動の形態でさえもである。それは国民国家による市民の強制された同化とは著しく異なる。そして国民国家の拡張は、帝国主義の下で他の人民の強制による同化を伴って現れた。


オスマン帝国の崩壊と種々の民族の独立は、様々な西洋国家によって実現された。当時、これらの国家は、帝国の諸国家に対して、主権国家としての独立を許可することを力説した。だが実際のところは、これらの西洋諸国は、厳密に経済的に支配するために彼らを独立させたのである。これをもって、われわれは帝国と決別し帝国主義の時代に入った。


帝国主義が意味するのは、統治する帝国の原理の不在[the absence of the governing principle of empire]のなかでの、他の国民国家によるある国民の支配である。この理由で、オスマン帝国を解体した西側の勢力はすぐさまアラブのナショナリズムに直面した。(柄谷行人『世界史の構造』2010年、英文からの私訳)


柄谷はこう書いて四年後に次のように言っているのである。


帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)

近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。〔・・・〕帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要〔・・・〕。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)






…………………


前回、オスマン史の第一人者とされる永田雄三氏の「「イスラム世界」と地中海地域」(2005年)の冒頭を引用したが、ここでは、オスマン帝国の統治の仕方が(簡単にだが)説明されている別の論(「バルカン諸国の歴史~オスマン帝国の遺したもの~」永田雄三、2011年)から引用する。


オスマン帝国(1300頃~1922年)支配がバルカン諸国の社会に残した歴史的遺産の重要性が、東欧社会主義圏の崩壊以後、再認識されている。そこで、この時代状況を踏まえて、バルカン諸国の中世末期から近世、そして近代初期に到るまでの約500年に及ぶオスマン帝国支配の時代を主に扱うことにし、それ以前の時代については、必要が生じた場合にのみ言及する。


克服された暗黒時代史観


1958年に山川出版社から上梓された「世界各国史13 東欧史 』は、当時、バルカンを含む東欧史のほとんど唯一つの概説書として広く読まれた本である。しかし、この本のオスマン帝国支配時代に関する叙述は、「トルコ帝国の圧政」(ギリシア)、「ブルガリア史上の暗黒時代」、「トルコ帝国の重圧」(セルビア)といった「悪のイメージ」に貫かれている。その後、この本の新版が刊行されることになり、そのとき初めて「オスマン帝国支配下のバルカン」という一節が追加され、私がその執筆を手掛けた。その際に、まずは「暗黒時代史観の克服」という一文から書き始めなければならなかった。


「トルコの圧政」といったイメージは、直接的には19世紀になってオスマン帝国からの独立をめざすバルカン諸民族が、ヨーロッパ諸国の支持を得るために持ち出した政治的プロパガンダによるものである。そして、それが広く受け入れられたのは、ヨーロッパ人の心に古くから潜んでいた「東方からの脅威」(アッティラ大王、チンギスハーン、そしてトルコ)という感覚と共鳴したからである。現在ではオスマン帝国を「トルコ」あるいは「オスマントルコ」という言い方はしないし、また、「暗黒の500年」という考え方も批判されており、より実態に則した客観的な見方ができるようになっている。〔・・・〕

「オスマンの平和」のもとでバルカン支配のみならず、オスマン帝国そのものの永続性と繁栄を確保したシステムの一つは、良く整備された官僚制に基づく中央集権支配体制とイスラム法(シャリーア)に基づく公正な支配である。オスマン帝国は、トルコ人によって建国された国家ではあるが、中央アジアから西アジア、さらにバルカンへと移住したトルコ人の数は先住民の数よりもはるかに少なかったはずである。16世紀のオスマン帝国の領土は、途方もない広がりを持っている(図2)。この広大な領土を支配するための人材リクルートシステムとして導入されたのが「デヴシルメ(徴用)」と呼ばれる制度である。これはアナトリアと、特にバルカンのキリスト教徒子弟を君主(スルタン)の個人的な「奴隷」として徴用し、イスラムに改宗させて、宮廷やトルコ系高官のもとで訓練を施す制度である。彼らの大多数は、将来イェニチェリなどの軍人となった。彼らの身じろぎ一つしない規律の正しさは、当時ヨーロッパ諸国から訪れる使節たちに感嘆の声をあげさせている。〔・・・〕


オスマン帝国はイスラム政権であったため、非イスラム教徒が国政に参与したり、法律的にイスラム教徒と完全に平等というわけにはいかなかった。しかし歴代のイスラム政権はユダヤ教徒やキリスト教徒を、それだけの理由で迫害したり、改宗を強要することはなかった。非イスラム教徒はイスラムの傘のもとで「保護民(ズィンミー)」と位置付けられ、「人頭税(ジズヤ)」を支払いさえすれば宗教的・社会的自治を大幅に認められた。オスマン帝国では、これは「ミッレト」制度と呼ばれた。従って、オスマン帝国500年の支配のもとで、バルカンの現地民はイスラムへの改宗を強要されることは全くなかった。ただ、こうした穏健な統治政策のもとで、しだいにイスラムに改宗する人々が現れた。特にボスニア=ヘルツェゴヴィナや北部ギリシアから南部アルバニアにかけての地域では、現地民のイスラムへの改宗がゆっくりと進むことによってイスラム化した。この地域は現在でもバルカンにおけるイスラム文化の中心であり、そのまた中心がサライェヴォである。(永田雄三「バルカン諸国の歴史~オスマン帝国の遺したもの~」2011年)



《イスラム法(シャリーア)に基づく公正な支配》などとあり、巷間にイメージされているシャリーアとは大きく異なることが指摘されているが、シャリーアのもともとの意味は「水場に至る道」で、アッラー(神)が示した正しい生き方を定めたイスラム法を指すそうだ。


こういったの引用すると、トルコべったりだな、と言う人もいるだろうし、相対化するためにこうも引用しておこう。


私が留学したのは 1965 年、これは、実は第 2 回目なんです。第 1 回目は 64 年なんですね。その ときに合格したのは最近トルコのノーベル文学賞作家オルハン・パムクの小説を翻訳したことで知 られている和久井路子さん。東大の言語学教室の出身です。ところが手続きが遅れて実際に行くのは私と一緒になったのです。でも、あの頃の日本はどうかと言うと、日本政府はアジア・アフリカ への留学などということは頭の片隅にもありません。あの頃日本人が留学と言ったら欧米ですね。 日本人がトルコへ日本の政府の奨学金で留学できるようになったのは、私の記憶では 1979 年です。 その頃からようやく日本人が、いわゆる日本政府あるいは学術振興会の奨学金でトルコに留学する ようになった。ですから、私も小山晧一郎さんも京都大学の小田壽典さん、それから鈴木董さん、 ヤマンラール水野美奈子さん、みんなトルコ政府の奨学金留学生です。(永田雄三「わたしのトルコ研究を振り返って」2013年)


鈴木董さんとあるが、前回引用したように、次のように言っている1947年生まれの東大の先生だ(永田雄三さんは1939年生まれ)。


オスマン帝国は、「トルコ民族国家」よりも「イスラーム帝国」であった。(鈴木菫「オスマン帝国の重層性」2003年)


まだ日本もトルコも貧しい時代、日本からは奨学金は出ず、トルコ政府の金で留学したのだから、トルコの悪口はーー私は現在のトルコには我慢できないところがふんだんにあるのだがーー(もし仮にそれを見出しても)簡単には言い難いという面はあるだろう。