前回、柄谷行人の『世界史の構造』から引用したところで、以前は雑にしか読んでいなかったこの書を読み返しているのだが(?)ーー英語版しか手元にないので英語でーー、実に核心箇所でフロイトに依拠している論だとあらためて感じる。たとえば「抑圧されたものの回帰」という表現が14箇所も使われている。私は柄谷行人をいま生きている日本の思想家でナンバーワンに置いてきた者だが、いくらか集中的にフロイトラカンを勉強した今の私の目では、突っ込みどころがないではない。 ここでは超自我概念を掲げよう。 |
最初のフロイトは、親もしくは社会によって発せられる「上からの」禁止のなかに超自我を探し求めた。しかし第一次世界大戦における戦闘消耗と戦争神経症の事例に遭遇して、フロイトは見解を修正した。フロイトは、外部に向けられた攻撃性が自己に向かって内部に向け直されるものとして、超自我を見るようになった。 The early Freud sought the superego in prohibitions “from above” issued by parent or society, but after he encountered cases of combat fatigue and war neurosis in the First World War, he revised his position. He now saw the superego as externally directed aggressiveness redirected inward toward the self.(柄谷行人『世界史の構造』2010年ーー英語版から私訳) |
これは一見奇妙な文である。フロイトが超自我概念を初めて提出したのは、1923年の『自我とエス』であり、フロイトが戦争神経症に出会ったのは、1910年代半ば以降なのだから。たぶんエディプス的父や自我理想を超自我と等置しての記述なのだろう。この自我理想=超自我としてしまっている問題点についてはここでは触れない(ラカン的には「自我理想/超自我」は「象徴界/現実界」(「言語/身体」、あるいは「欲望/欲動(享楽)」)にあり、「後期抑圧されたものの回帰/原抑圧されたものの回帰」にもダイレクトに関係し、後者の死の欲動レベルでの「抑圧されたものの回帰」(排除されたものの回帰)を把握するための根源的区別であるが、これを記述しだすとひどく長くなってしまう)。 |
今は次の記述に絞って問題点を鮮明化したい。 |
フロイトは外部に向けられた攻撃性が自己に向かって内部に向け直されるものとして超自我を見るようになった[He now saw the superego as externally directed aggressiveness redirected inward toward the self](柄谷行人『世界史の構造』) |
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さてラカン派の超自我の捉え方を三文引用してからフロイトに向かう。 |
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超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme],(Lacan, S10, 16 janvier 1963) |
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死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ..., c'est la pulsion du surmoi] (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000) |
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タナトスは超自我の別の名である[Thanatos, which is another name for the superego ](Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one., 2016) |
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フロイトは1919年にこう書いている。 |
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マゾヒズムは、原欲動の顕れではなく、サディズム起源のものが、自我へと転回、すなわち、退行によって、対象から自我へと方向転換したのである[der Masochismus keine primäre Triebäußerung ist, sondern aus einer Rückwendung des Sadismus gegen die eigene Person, also durch Regression vom Objekt aufs Ich entsteht. ](フロイト『子供が打たれる』第5章、1919年) |
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これは柄谷の言う通りである。だが一年後に次の叙述が現われる。 |
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自分自身の自我にたいする欲動の方向転換とみられたマゾヒズムは、実は、以前の段階へ戻ること、つまり退行である。当時、マゾヒズムについて行なった叙述は、ある点からみれば、あまりにも狭いものとして修正される必要があろう。すなわち、マゾヒズムは、私がそのころ論難しようと思ったことであるが、原初的な primärer ものでありうる[Der Masochismus, die Wendung des Triebes gegen das eigene Ich, wäre dann in Wirklichkeit eine Rückkehr zu einer früheren Phase desselben, eine Regression. In einem Punkte bedürfte die damals vom Masochismus gegebene Darstellung einer Berichtigung als allzu ausschließlich; der Masochismus könnte auch, was ich dort bestreiten wollte, ein primärer sein.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) |
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1920年以降のフロイトは、柄谷の言っている超自我の捉え方とは逆転したのである。まず自我に向かう力が先にあり(マゾヒズム)、その後、外部に向かって(サディズム)、その力がふたたび「二次的なものとして」内部に向かう。これが1920年以降のフロイトである。 |
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ここからは最晩年のフロイトから遡るようにして引用列挙しよう。 まず1939年、フロイトの死の年の記述。 |
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超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. ](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
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次に1933年。 |
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マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に居残ったままでありうる。 Masochismus […] für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. […] daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕 我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか! es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕 |
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我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。 Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
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そして柄谷がしばしば引用する1924年の「マゾヒズムの経済論的問題」から。 |
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もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動ーー原サディズムーーはマゾヒズムと一致するといってさしかえない。〔・・・〕ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動が、ふたたび取り入れられて内部に向け換えられ、以前の状況へと退行する。こうして二次マゾヒズムが生み出され、原マゾヒズムに合流する。 Wenn man sich über einige Ungenauigkeit hinaussetzen will, kann man sagen, der im Organismus wirkende Todestrieb –; der Ursadismus –; sei mit dem Masochismus identisch. […]unter bestimmten Verhältnissen der nach außen gewendete, projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb wieder introjiziert, nach innen gewendet werden kann, solcherart in seine frühere Situation regrediert. Er ergibt dann den sekundären Masochismus, der sich zum ursprünglichen hinzuaddiert. (フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年) |
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柄谷はフロイトプロパではないのだから、1939年や1933年の記述を視野に入れていないのは、ある意味止む得ない。だが熱心に読んでいる筈の『マゾヒズムの経済論的問題』の記述をどうして見逃したのだろう? 1920年以降のフロイトの思考は間違いなく次の図の通りなのに。 たしかに『文化の中の居心地の悪さ』(1930年)や『ヒトはなぜ戦争をするのかーアインシュタインとフロイトの往復書簡』(1933年)などのなかにも柄谷行人の言っているように超自我=死の欲動を捉えうる叙述はある。だがあれは二次的なもの、あるいはモラリストとして言っているのであり、フロイトの本来の考え方ではない。ーー《我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!》(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) ………………
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マゾヒズム用語が意味するのは、何よりもまず死の欲動に苛まれる主体である。リビドー はそれ自体、死の欲動である。したがってリビドーの主体は、死の欲動に苦しみ苛まれる。Le terme de masochisme veut dire que c'est d'abord le sujet qui pâtit de la pulsion de mort. La libido est comme telle pulsion de mort, et le sujet de la libido est donc celui qui en pâtit, qui en souffre. (J.-A. Miller, LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989) |
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ラカンはマゾヒズム において、達成された愛の関係を享楽する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰な固着を示している。それは母への固着であり、自己身体への固着でさえある。自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである。Il distinguera, dans le masochisme, une version saine du masochisme dont on jouit dans une relation amoureuse épanouie, et une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre. L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même.. (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001) |