このブログを検索

2021年9月6日月曜日

自我理想と超自我の相違の再確認

自我理想と超自我の相違については何度か示しているが、前回も仄めかしたように、柄谷行人がそれを区別しないまま『世界史の構造』を書いているのを見出したので、ここで再確認しておく。

柄谷行人には「交換様式入門」(2017年)という『世界史の構造』(2010年)の導入のような17頁の論がある。導入といってもとても密度が濃い。抑圧されたものの回帰を遊動性の回帰と等置としており、2010年以降の柄谷の思考のエッセンスとしても捉えうる。たとえば柳田國男論の核はこの小論にある。


資本=ネーション=国家を越える手がかりは、やはり、遊動性にある。ただし、それは遊牧民的な遊動性ではなく、狩猟採集民的な遊動性である。定住以後に生じた遊動性、つまり、遊牧民、山地人あるいは漂泊民の遊動性は、定住以前にあった遊動性を真に回復するものではない。かえって、それは国家と資本の支配を拡張するものである。・・・ 交換様式Dにおいて、何が回帰するのか。定住によって失われた狩猟採集民の遊動性である。それは現に存在するものではない。が、それについて理論的に考えることはできる。(柄谷行人『柳田国男と山人 2014年)



「交換様式入門」に戻れば、それは次のように始まっている。


私は『世界史の構造』 2010)で、 「生産様式から交換様式へ」ということを 提唱しました。それについて、簡単に説明したいと思います。


この論はおそらく英語で先に書かれたのではないか、と調べてみると、"An Introduction to Modes of Exchange (2017)  Kojin Karatani "というのがやはりある。さらに英語版以外に中国語、フランス語、スペイン語もある➡︎Kojin Karatani Web



この論の冒頭近くにフロイトの引用がある。それをまず掲げよう(独原文は私が付け加えた)。


マルクス主義のすぐれたところは、察しますに、歴史の理解の仕方とそれにもとづいた未来の予言にあるのではなく、人間の経済的諸関係が知的、倫理的、芸術的な考え方に及ぼす避けがたい影響を、切れ味鋭く立証したところにあります。これによって、それまではほとんど完璧に見誤られていた一連の因果関係と依存関係が暴き出されることになったわけです。


Die Stärke des Marxismus liegt offenbar nicht in seiner Auffassung der Geschichte und der darauf gegründeten Vorhersage der Zukunft, sondern in dem scharfsinnigen Nachweis des zwingenden Einflusses, den die ökonomischen Verhältnisse der Menschen auf ihre intellektuellen, ethischen und künstlerischen Einstellungen haben. Eine Reihe von Zusammenhängen und Abhängigkeiten wurden damit aufgedeckt, die bis dahin fast völlig verkannt worden waren. 


しかしながら、 経済的動機が社会における人間の行動を決定する唯一のものだとまで極論されると、私たちとしましては、受け入れることができなくなります。さまざまに異なった個人や種族や民族が、同じ経済的条件下にあってもそれぞれ異なった動きをするという紛れもない事実ひとつを見ただけでも、経済的契機の専一的支配というものが成り立たないことが分かるはずです。


Aber man kann nicht annehmen, daß die ökonomischen Motive die einzigen sind, die das Verhalten der Menschen in der Gesellschaft bestimmen. Schon die unzweifelhafte Tatsache, daß verschiedene Personen, Rassen, Völker unter den nämlichen Wirtschaftsbedingungen sich verschieden benehmen, schließt die Alleinherrschaft der ökonomischen Momente aus. 


そもそも理解できないのは、生きて動く人間の反応が問題になる場合に、どうして心理的ファクターを無視してよいわけがあろうかという点です。と申しますのも、 経済的諸関係が生みだされるところにはすでに、そうした心理的ファクターが関与していたはずだからですし、そればかりか、経済的諸関係の支配がすでに行き渡っているところでも、人間は、ほかでもない、自己保存欲動、攻撃欲、愛情欲求が、自らの根源的な欲動の犇めきを発動させ、快獲得と不快忌避を衝迫的に求めるからです。


Man versteht überhaupt nicht, wie man psychologische Faktoren übergehen kann, wo es sich um die Reaktionen lebender Menschenwesen handelt, denn nicht nur, daß solche bereits an der Herstellung jener ökonomischen Verhältnisse beteiligt waren, auch unter deren Herrschaft können Menschen nicht anders als ihre ursprünglichen Triebregungen ins Spiel bringen, ihren Selbsterhaltungstrieb, ihre Aggressionslust, ihr Liebesbedürfnis, ihren Drang nach Lusterwerb und Unlustvermeidung. 


あるいはまた、以前の探究で超自我の重要な要求について論じておきましたように、超自我が、過去の伝統と理想形成を代表し、新たな経済状況からの動因に対してしばらくのあいだは抵抗したりもするわけです。


In einer früheren Untersuchung haben wir auch den bedeutsamen Anspruch des Über-Ichs geltend gemacht, das Tradition und Idealbildungen der Vergangenheit vertritt und den Antrieben aus einer neuen ökonomischen Situation eine Zeitlang Widerstand leisten wird.  (フロイト「続精神分析入門」、 『フロイト全集 21』、岩波書店、p235-635. Vorlesung. Über eine Weltanschauung 1933年)



このフロイトの叙述を柄谷がどう展開しているか、これはここでの直接の話題ではない。いまさしあたり話題にしたいのは、《超自我が、過去の伝統と理想形成を代表し[Über-Ichs geltend gemacht, das Tradition und Idealbildungen der Vergangenheit vertritt]》という箇所である。フロイトはこの第35講のいくつか前の第31講で次のように言っている。



超自我は幼児期にとって非常に重要な感情的結びつきの後継者として現れる[das Über-Ich als der Erbe dieser für die Kindheit so bedeutungsvollen Gefühlsbindung erscheint. ]〔・・・〕


発達過程のなかで、超自我はまた両親の場を引き受ける者の影響を受ける。すなわち教育者、教師、理想的モデルとして選ばれた者たちである[Im Laufe der Entwicklung nimmt das Über-Ich auch die Einflüsse jener Personen an, die an die Stelle der Eltern getreten sind, also von Erziehern, Lehrern, idealen Vorbildern.]〔・・・〕

超自我はまた自我理想の媒体である。この自我理想によって自我は自らを評価し、それに対して奮闘し、より大きな完全生活へのその要求を実現しようと努める。疑いもなく、この自我理想は古い両親の表象の沈殿物である[Über-Ich …Es ist auch der Träger des Ichideals, an dem das Ich sich mißt, dem es nachstrebt, dessen Anspruch auf immer weitergehende Vervollkommnung es zu erfüllen bemüht ist. Kein Zweifel, dieses Ichideal ist der Niederschlag der alten Elternvorstellung](フロイト『続精神分析入門』第31講、1933年)


ここでフロイトは超自我のなかに「感情的結びつきの後継者」と「自我理想」(理想形成の代表)を含めていると言ってよいだろう。

さらにこうもある。


1921年に集団心理学の研究において、私は自我と超自我のあいだの区別を利用しようとした[Im Jahre 1921 habe ich versucht, die Differenzierung von Ich und Über-Ich beim Studium der Massenpsychologie zu verwenden. (フロイト『続精神分析入門』第31講、1933年)


これは厳密に言えば、奇妙な発言である。なぜならフロイトが超自我概念を初めて提出したのは、1923年の『自我とエス』だから。1921年当時は自我理想しかない。つまりはフロイトは自我理想を超自我と等置していることになる。こういったとことに前回示した柄谷の自我理想=超自我の起源のひとつがある。柄谷の問題ではなくフロイトの叙述の曖昧さの問題が大きい(ドゥルーズ もこれに引っかかってしまった[参照])。


実際、『自我とエス』にはこうある。


自我内部の分化は、自我理想あるいは超自我と呼ばれうる[eine Differenzierung innerhalb des Ichs, die Ich-Ideal oder Über-Ich zu nennen ist](フロイト『自我とエス』第3章、1923年)



ーーこうあれば、誰もが等置したくなる。


ところでラカンはこの自我理想と超自我を区別したのである。


要するに自我理想は象徴界で終わる。言い換えれば、自我理想は何も言わない。何かを言うことを促す力、言い換えれば、私に教えを促す魔性の力、それは超自我だ。l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique, autrement dit de ne rien dire. Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi  j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi.  (ラカン、S24, 08 Février 1977


「自我理想は象徴界で終わる」とは、自我理想は言語の審級にあるということである、ーー《象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage]》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978


では超自我はどうか。超自我は現実界にある。ラカンの想像界は象徴界によって構造化されているのだから、現実界でしかない(厳密にはボロメオの環の現実界と想像界の重なり目だが)。


想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](ラカン, S2, 29 Juin 1955



ところでフロイトの実際はどうなのか。先ほど「感情的結びつきの後継者」と「自我理想」の両方を超自我に含めているのを見た。いま問題にしたいのは前者の感情的結びつき[Gefühlsbindung]である。


フロイトは感情的結びつきを同一化と等置していることを念頭に以下の引用群を読もう、《同一化は対象への最も原初的感情結合である[Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist]》(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)


まず超自我は同一化にかかわるとフロイトは言っている。


超自我への取り入れ〔・・・〕。幼児は優位に立つ権威を同一化によって吸収する。するとそれは幼児の超自我になり、できれば幼児がその権威に用いたであろうあらゆる攻撃性向を備えるにいたる。[Introjektion ins Über-Ich…indem es diese unangreifbare Autorität durch Identifizierung in sich aufnimmt, die nun das Über-Ich wird und in den Besitz all der Aggression gerät, die man gern als Kind gegen sie ausgeübt hätte. (フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)


さらに『自我とエス』では、自我理想の背後に別の同一化があると言っている。


最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的でありかつ永続的であるにちがいない。このことは、われわれを自我理想[Ichideals]の発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初の最も重要な同一化がかくされているからである[die Wirkungen der ersten, im frühesten Alter erfolgten Identifizierungen werden allgemeine und nachhaltige sein. Dies führt uns zur Entstehung des Ichideals zurück, denn hinter ihm verbirgt sich die erste und bedeutsamste Identifizierung des Individuums,](フロイト『自我とエス』、第3章、1923年)


この同一化は母に関わる。


父との同一化と同時に、おそらくはそれ以前にも、男児は、母にたいするアタッチメント型(依存型)の本格的対象備給を向け始める[Gleichzeitig mit dieser Identifizierung mit dem Vater, vielleicht sogar vorher, hat der Knabe begonnen, eine richtige Objektbesetzung der Mutter nach dem Anlehnungstypus vorzunehmen.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」、1921年)

個人の原始的な口唇期の初めにおいて、対象備給と同一化は互いに区別されていなかった[Uranfänglich in der primitiven oralen Phase des Individuums sind Objektbesetzung und Identifizierung wohl nicht voneinander zu unterscheiden. ](フロイト『自我とエス』第3章、1923年)

前エディプス期の母との同一化[Die Mutteridentifizierung …die präödipale,](フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『続精神分析入門講義』第33講、1933年)


フロイトは母の乳房が同一化の出発だとも言っている。


非常に幼い時期に、母への対象備給[Mutter eine Objektbesetzung ]がはじまり、対象備給は母の乳房[Mutterbrust]を出発点とし、アタッチメント型[Anlehnungstypus]の対象選択の原型を示す。[Ganz frühzeitig entwickelt es für die Mutter eine Objektbesetzung, die von der Mutterbrust ihren Ausgang nimmt und das vorbildliche Beispiel einer Objektwahl nach dem Anlehnungstypus zeigt; ](フロイト『自我とエス』第3章、1923年)


この文脈のなかでメラニー・クラインの次の主張がある。


私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view…the introjection of the breast is the beginning of superego formationThe core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)




ラカンはこのクラインを受け入れて「母なる超自我=原超自我」と言っている(もっともラカンはより一般化して母の乳房ではなく母の身体としているが[後述])。


母なる超自我[surmoi maternel]・太古の超自我[surmoi archaïque]、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我 surmoi primordial]の効果に結びついているものである。最初の他者の水準において、ーーそれが最初の要求[demandes]の単純な支えである限りであるがーー私は言おう、幼児の欲求[besoin]の最初の漠然とした分節化、その水準における最初の欲求不満[frustrations]において、母なる超自我に属する全ては、この母への依存[dépendance]の周りに分節化される。  (Lacan, S.5, 02 Juillet 1958


このように言った半年前には「母なる超自我/父なる超自我」という表現を使っている。


問いがある。父なる超自我の背後に母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的 、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le sur-moi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ?   (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)


この父なる超自我が事実上、フロイトの自我理想であり、ラカンの父の名である。


父の名は象徴界にあり、現実界にはない[le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005)


そして後年には、母なる超自我が超自我自体になった。

この超自我の別名がモノである。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976

モノは母である[das Ding, qui est la mère](ラカン, S7, 16 Décembre 1959

クラインの分節化は次のようになっている、すなわちモノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[L'articulation kleinienne consiste en ceci :  à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère, (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)



以上、基本的にはフロイトラカンを対比させればこうなる。





フロイトは上に見たように自我理想と超自我を区別している時もあるがーー「父との同一化/母との同一化」ーー、最後まで厳密には区別しなかったという意味で上のように示した。他方、ラカンの区別は厳密である。


なぜなら「父/母」は、ラカンにとって、「言語/身体」、「欲望/欲動(享楽)」に関わり、この区分がなければラカンの重要さはないとさえ言える。


欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある[le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose](ラカン, E853, 1964年)


ここでの大他者は事実上、父の名であり、さらに言語である。


大他者とは父の名の効果としての言語自体である grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.(J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98



欲望も同じく言語につながっている。


欲望は法に従属している[désir …soit soumis à la Loi ](Lacan, E852, 1964年)

欲望は言語に結びついている[le désir tient au langage  (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011

言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない[Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)


他方、モノとしての享楽はどうか。


ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011

欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)

欲動は心的生に課される身体的要求である[Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)



ーーモノは欲動の身体であり、これが母の身体に関係する。


実界は、象徴界と想像界を見せかけの地位に押し戻す。そしてこの現実界はドイツ語のモノdas Dingによって示される。この語をラカンは欲動として示した。

le réel repousse le symbolique et l'imaginaire dans le statut de semblant, ce réel alors apparaît indexé par le mot allemand, …indexé par le mot de das Ding, la chose. Référence par quoi Lacan indiquait la pulsion. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 19/1/2011)

モノは享楽の名である[das Ding…est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

母なる対象はいくつかの顔がある。まずは「要求の大他者」である。だがまた「身体の大他者」、「原享楽の大他者」である。L'objet maternel a plusieurs faces : c'est l'Autre de la demande, mais c'est aussi l'Autre du corps…, l'Autre de la jouissance primaire.(Colette Soler , LE DÉSIR, PAS SANS LA JOUISSANCE Auteur :30 novembre 2017)



以上、ラカンによる区分は次のように置ける。





たとえばラカンはこう言っている。


一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.](ラカン, S17, 18 Février 1970

一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](ラカン, S23, 16 Mars 1976)


この二文から「超自我は女なるものである」と読めるが、この女なるものは基本的に「母女なるもの」である。


(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (ラカン, S17, 11 Février 1970)



……………………



以下はここでの話題をいくらか超えて記述する。


晩年のラカンは、先ほどの図の上辺は存在しないというようになった。

大他者は存在しない[l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ)](ラカン, S24, 08 Mars 1977

言語は存在しない[le langage, ça n'existe pas. ](Lacan, S25, 15 Novembre 1977


存在しないとは見せかけ(仮象)に過ぎないということである。


見せかけはシニフィアン自体だ! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](ラカン、S18, 13 Janvier 1971

言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](ラカン、S1921 Juin 1972


つまりは父の名は存在しない、見せかけだと。


ラカンは父の名を終焉させた[le Nom-du-Père, c'est pour y mettre fin. ]〔・・・〕つまり大他者は見せかけに過ぎない[l'Autre n'est qu'un semblant(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96


ラカンが、フロイトのエディプスの形式化から抽出した「父の名」自体、見せかけに位置づけられる。Le Nom-du-Père que Lacan avait extrait de sa formalisation de l'Œdipe freudien est lui-même situé comme semblant(ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019


では何があるのか。上に示したように、モノ=欲動=享楽である。

このモノに対する防衛が「人はみな妄想する」の意味である。


フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。


Freud…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1979)


このあたりは完全についていけているとは私はーーおそらくたいていのみなさんと同様にーー言い難いが、ニーチェもこう言っているのである、《「仮象の(見せかけの)」世界が、唯一の世界である。「真の世界」とは、たんなる嘘であるDie »scheinbare« Welt ist die einzige: die »wahre Welt« ist nur hinzugelogen... ]》(ニーチェ「哲学における「理性Vernunft」」 『偶像の黄昏』 所収、1888年)。そしてニーチェ にとっても「力への意志=欲動」のみがわれわれを支えるものである、《すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...》(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)、《欲動〔・・・〕、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[Triebe … "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"]》「ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)


ジャック=アラン・ミレールで確認しておこう。


私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire〔・・・〕


ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。〔・・・〕


あなた方は精神分析家として機能しえない、もしあなた方が知っていること、あなた方自身の世界は妄想だと気づいていなかったら。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。分析家であることは、あなた方の世界、あなた方が意味を為す仕方は妄想的であることを知ることである。Vous ne pouvez pas fonctionner comme psychanalyste si vous n'êtes pas conscient que ce que vous savez, que votre monde, est délirant – fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant. Etre analyste, c'est savoir que votre propre fantasme, votre propre manière de faire sens est délirante J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)

象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属しているのである。L'ordre symbolique est maintenant reconnu comme un système de semblants qui ne commande pas au réel, mais lui est subordonné. J.-A. Miller, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT, 2014



以上は蚊居肢ブログの妄想的記述デアル・・・


病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である[Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. ](フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)