ははあ、
探したらYouTubeにもあったけど、こういうことを言うとリベラルを怒らすんだよなあ、相手が誠実であればあるほど。
ジジェクのアフガニスタン第三弾で知ったのだけれど、これだってとっても怒らすだろうなあ、楽しんで怒らそうとしてるんだろうけど。
Slavoj Zizek: Can the Taliban have anything in common with ‘political correctness’? Surprisingly, there is one thing...(29 Aug, 2021) |
In a debate years ago, an Australian Muslim woman emphatically claimed that Islam is the most feminist of all religions. Now we can understand why: Islam – at least in its fundamentalist version – is obsessed with the idea of protecting women. But protecting them from what? From aggressive men? Beneath this public justification it is easy to discover its (mostly) hidden truth: not from men – the true fear is that a woman might enjoy being sexually ‘mistreated’ and used by men. Beneath the desire to protect and control women, there is thus lurking a much more ambiguous mixture of panicky fear and of the deep distrust of the moral composure of men themselves.〔・・・〕 |
So what would or could be really repressed and traumatic here? The most obvious answer is: the exact opposite, i.e., the true trauma was that the woman secretly enjoyed being mistreated, and was absolutely not ready to admit it. Her being disgusted and feeling humiliated was already fake, a cover destined to obfuscate this disavowed enjoyment, a fact much more traumatic than her mistreatment by the sexual partner. To avoid a misunderstanding: this in no way implies that the man’s mishandling was justified (since the woman enjoyed it, so ‘she got what she wanted’) – quite the opposite. We all have secret dirty fantasies, and perhaps the most humiliating experience is to get what we secretly dream about brutally imposed from outside. This is why – an extreme example – a woman who secretly dreams about being raped will be much more traumatized when raped in reality than a strong autonomous woman. |
別の女性も言ってるな、
もっともさっきのは、いままでに何度か繰り返しているのだけど。
⋯⋯この幻想の逆説的な地位は、われわれを、精神分析とフェミニズムがどうしても合意できない究極の一点へと導く。それはレイプ(とそれを支えているマゾヒズム的幻想)である。 少なくとも標準的フェミニズムにとっては、レイプが外部からの暴力であることは自明だ。たとえ女性が、レイプされたり乱暴に扱われたりするという幻想を抱いていたとしても、それは男性の幻想であるか、もしくは、その女性の父権的なリビドー経済を「内面化」しているために自らすすんで犠牲になったのだということになる。裏を返せば、レイプの白昼夢という事実を認めた瞬間、われわれは男性優位主義的な決まり文句への扉を開けることになる。その決まり文句とは――女性はレイプされることによって自分が密かに望んでいたものを手に入れるだけのことであり、彼女のショックや恐怖、彼女が自分の欲望を認めるほど正直ではないという事実を示しているにすぎない……。 |
このように、女性もレイプされる幻想を抱くかもしれないと示唆した瞬間、次のような反論が飛んでくる。「それは、ユダヤ人は収容所でガス室送りになる幻想を抱いているとか、アフリカ系アメリカ人はリンチされていることを幻想している、と言っているのと同じだ」。この見方によれば、女性の分裂したヒステリー的な立場(性的に虐待されることに不平を述べながら、一方でそれを望み、自分を誘惑するよう男を挑発する)は二次的である。しかしフロイトにとっては、この分裂こそが一次的であり、主体性の本質である。 このことから得られる現実的な結論はこうだ――(一部の)女性は実際にレイプされることを空想するかもしれないが、その事実はけっして現実のレイプを正当化するわけではないし、それどころかレイプをより暴力的なものにする。 |
ここに二人の女性がいたとする。ひとりは解放され、自立していて、活動的だ。もうひとりはパートナーに暴力をふるわれることや、レイプされることすら密かに空想している。決定的な点は、もし二人がレイプされたら、レイプは後者にとってのほうがずっとトラウマ的だということである。レイプが「彼女の空想の素材」を「外的な」社会現実において実現するからである。 主体の存在の幻想的中核と、彼あるいは彼女の象徴的あるいは想像的同一化のより表層的な諸様相との間には、両者を永遠に分離する落差がある。私は私の存在の幻想的な核を全面的に(象徴的統合という意味で)わが身に引き受けることは絶対できない。私があえて接近しようとすると、ラカンが「主体の消滅(自己抹消 aphanisis)」と呼んだものが起きる。主体はその象徴的整合性を失い、崩壊する。そしておそらく私の存在の幻想的な核を現実世界の中で無理やり現実化することは、最悪の、最も屈辱的な暴力、すなわち私のアイデンティティ(私の自己イメージ)の土台そのものを突き崩す暴力である。 |
(ジジェク注:これはまた、実際にレイプをする男は女性をレイプする幻想を抱かないことの理由である。それどころか、彼らは自分が優しくて、愛するパートナーを見つけるという幻想を抱いている。レイプは、現実の生活ではそうしたパートナーを見つけれないことから生じる暴力的な「行為への通り道 passage a l'acte」なのである。) |
結局、フロイトからすると、レイプをめぐる問題とは次のことだ。すなわち、レイプがかくもトラウマ的な衝撃力をもっているのは、犠牲者によって否認されたものに触れるからである。したがって、フロイトが《(主体が)幻想の中で最も切実に求めるものが現実的にあらわれると、彼らはそれから逃走してしまう》(『症例ドラ』)と書いたとき、彼が言わんとしていたのは、このことはたんに検閲のせいで起きるのではなく、むしろわれわれの幻想の核がわれわれにとって耐えがたいものだからである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳、一部変更) |
ジャック=アラン・ミレール版だったらこうだ。
女性的マゾヒズムの秘密は、被愛妄想である[Le secret du masochisme féminin est l'érotomanie](J.-A. Miller, L'os d'une cure, Navarin, 2018) |
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女性の愛の形式は、フェティシストというよりも被愛妄想的です。女性は愛されたいのです。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひくために、それらはしばしば不可欠なものです。この現象は、男たちが女たちに話しかける実践の基礎に横たわっています。la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste : elles veulent être aimées, et l'intérêt, l'amour qu'on leur manifeste, ou qu'elles supposent chez l'autre, est souvent une condition sine qua non pour déclencher leur amour, ou au moins leur consentement. Le phénomène est à la base de la drague masculine. (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年) |
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――幻想の役割はどうなのでしょう? 女性の場合、意識的であろうと無意識的であろうと、幻想は、愛の対象の選択よりも享楽の場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりする[être battue, violée] ことを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だ[ être une autre femme,]と想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいない[être ailleurs, absente]と想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(ジャック=アラン・ミレール、 On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " ,2010) |
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古典的に観察される男性の幻想は、性交中に別の女を幻想することである。他方、私が見出した女性の幻想は、もっと複雑で理解し難いものだが、性交中に別の男を幻想することではない。そうではなく、その性交最中の男が彼女自身ではなく別の女とヤッテいることを幻想する。その患者にとって、この幻想がオーガスムに達するために必要不可欠だった。… この幻想はとても深く隠されている。男・彼女の男・彼女の夫は、それについて何も知らない。彼は毎晩別の女とヤッテいるのを知らない…これがラカンが指摘したヒステリー的無言劇である。その幻想ーー同時にそのように幻想することについて最も隠蔽されている幻想は(女性的)主体のごく普通の態度のなかに観察しうるがーーそれを位置付けるのは容易ではない。(Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm) |
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実に、女性たちが頻繁に告白する典型的な幻想がある。つまり女性たちは、享楽を獲得するために、男性の虐待の対象として自らを表象する。剥き出しにされ、打たれ、貶められること。あたかも真正な女を感じるために必要不可欠であるかのようにして。この「自らを苦しめること」は望んで遠回りの道を取る。たとえば美しくあれという要請は、しばしば美学化されたマゾヒズムの仮面にすぎない。 |
Il y a bien à rendre compte des fantasmes typiques que des femmes confessent communément, à savoir que pour atteindre à la jouissance, elles se représentent en elles-mêmes comme l'objet de la persécution masculine – dépouillées, battues, déchues – comme si c'était là la condition sine qua non pour se sentir authentiquement femme. Ce “se faire souffrir” emprunte volontiers des chemins détournés. Par exemple, l'impératif d'être belle n'est souvent que le masque du masochisme esthétisé. (J.-A. Miller, Mèrefemme, 2015) |
よくないねえ、精神分析って。
そういえば、コプチェクはお茶水のフェミニズム研究会に呼ばれてこう言ってたな |
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コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こ うとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。(コプチェクの講演、2006/10/8 Joan Copjec お茶の水大学) |
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イスラム女みたいに目だけ出して隠してくれたほうがエロかもしれないよ。とくに誘惑の眼差しを磨けばさ。
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こんな変なの引用列挙しちゃったお詫びのしるしに文学版掲げとくよ。
どんなに身をまかせたいと焦っても口実がいります。ところで男の暴力に負けたように見える口実ほど女に都合のいいものはありません。じつを言うと私などいちばんありがたいのは神速にしてしかも一糸乱れぬ猛烈かつ巧妙な攻撃です。こちらが付込むべきところを、逆に尻ぬぐいせねばならないような間の悪い思いをけっしてさせぬ攻撃⋯⋯女の喜ぶ二つの欲望、防いだ誇りと敗れた喜びを巧みに満足させてくれる攻撃です。(ラクロ『危険な関係』) |
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私はどんな放浪の旅にも、懐から放したことのない二冊の本があった。N・R・F発行の「危険な関係」の袖珍本で、昭和十六年、小田原で、私の留守中に洪水に見舞われて太平洋へ押し流されてしまうまで、何より大切にしていたのである。 私はこの本のたった一ヶ所にアンダーラインをひいていた。それはメルトイユ夫人がヴァルモンに当てた手紙の部分で「女は愛する男には暴行されたようにして身をまかせることを欲するものだ」という意味のくだりであった。(坂口安吾「三十歳」) |
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佐枝は逃げようとする岩崎の首をからめ取りながら、おのずとからみつく男の脚から腰を左右に、ほとんど死に物狂いに逃がし、ときおり絶望したように膝で蹴りあげてくる。顔は嫌悪に歪んでいた。強姦されるかたちを、無意識のうちに演じている、と岩崎は眺めた。〔・・・〕にわかに逞しくなった膝で、佐枝は岩崎の身体を押しのけるようにする。それにこたえて岩崎の中でも、相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちてきて、かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出す。鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかける。やがて佐枝は細く澄んだ声を立てはじめる。男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だった。(古井由吉『栖』) |
いくらカタブツのリベラルでもこのくらいの経験はあるだろ? ないかね、最近の若いのは。不幸にもない人だけ怒ったらいいよ。
……………
※付記
ファンタジーとは、象徴化に抵抗する現実界の部分に意味を与える試みである。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998) |
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レイプファンタジー |
ある種の女たちは、セックスを強制されるファンタジーを抱く。一見したところ、レイプファンタジーというのは、まったく筋が通らない。どうしてそんなことを幻想(ファンタジー)しなくてはいけないのだろう? 実生活ではトラウマ的な、不快で命にかかわるとさえいえることを。 でもより念入りに調べてみると、こういったファンタジーは稀なわけではない。… ファンタジーというのは私たちの想像力のぎりぎりの限界を、なんの危険もなしに安全に「経験」させてくれる。それは、ある種の人たちにとっての、無理強いされたセックスファンタジーも含まれる。ファンタジーなら全ては許され、なにも悪いことはない。 |
とはいえレイプファンタジーは悩ましい問題にはちがいない。そんなファンタジーを抱く大半の女たちは異常だとか倒錯しているとかの思いを振り払えないだろうから。 1973年から2008年まで、女たちのレイプファンタジーの9つの調査が出版されている。それによれば、女たち10人につきほぼ4人はレイプファンタジーを抱くそうだ(31%~57%)。中位の頻度は、ひと月に1回ほど。実際の割合いはたぶんもっと高いんじゃないか。というのは女たちはそのファンタジーを気楽には認める気にはならないだろうから。… 直近のレポート(Bivona, J. and J. Critelli. "The Nature of Women's Rape Fantasies: An Analysis of Prevalence, Frequency, and Contents," Journal of Sex Research ,2009) では、ノーステキサス大学の心理学者が355人の女学生に質問している。どのくらいの頻度で、男もしくは女に、制圧され/強制され/レイプされる[overpowered, forced, raped]、つまりあなたの意志に反して、オーラル/ヴァギナ/アナルセックスをする、――そういったファンタジーを抱くのかという問いだ。 |
62パーセントの女学生が、少なくとも1度は、そういったファンタジーを抱いたことがあると言っている。だが、その問いで使われた用語によって返答はまちまちだ。「男に制圧される overpowered」と問えば、52パーセントがそのファンタジーを抱いたことがあると言う。その状況というのは、女たちの読むロマンスフィクションに最も典型的に表現されているものだ。だがもし用語を「レイプ」としたら、わずか32パーセントがそのファンタジーを抱いたころがあると言う。これは以前のレポートと似たり寄ったりだ。 |
月に1度、8パーセントは週に1度。5パーセントは週に数度(応答者の21パーセントは現実の生活で性的暴行を受けていると答えている)。… レイプやレイプに近似したファンタジーは、ロマンス小説の主流で、フィクションの永続的なベストセラーのカテゴリーのひとつだ。これらの本はしばしば"bodice-rippers"(主人公が性的に暴行される恋愛小説)と呼ばれている、タイトルは“Love's Sweet Savage Fury”の類だ。すくなくとも「強制」を意味するタイトルが多い。そこでは、ハンサムな男がヒロインの魅力に参ってしまって理性を全く失い、女を是非ものにしなくちゃならなくなる、ヒロインが拒絶してさえだ、――女は最初は拒絶する、でもそれから結局は降伏、欲望にとろけ込み、十全な満足という結末になる。… |
レイプファンタジーの頻度はまちまちだ。回答者の38パーセントは1度もないと。25パーセントは1年に1度以下。13パーセントは1年に数度抱くと。11パーセントは |
レイプファンタジーとは何を意味するのか? 私の見解では、ほかのファンタジーとの違いは何にもない。悪いものでもないし倒錯的でもない。メンタルな健康にかかわるものでもないし、実生活での性的性向にも関係ない。ただひたすら、おおよそ女たちの半分ほどに起こるだけのものだ。あなたがそのようなファンタジーを抱き気分を悪くしているとしても、どうすべきかは分からない。でもあなたは独りだけじゃないのだけは受け合っておく。レイプやほとんどレイプのようなファンタジーは驚くほどふつうのものだ。あなたはどう思う?(Michael Castleman M.A.、Women's Rape Fantasies: How Common? What Do They Mean? 2010) |