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2021年10月4日月曜日

とっても簡潔版:固着の残滓(a)=異者=サントーム

 またきいてくんだな、とっても簡潔版挙げとくよ。これがフロイトラカン理論のエキスだ。


フロイトには「真珠貝が真珠を造りだすその周りの砂粒[Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 」というよく知られた比喩がある。砂粒とは現実界の審級にあり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒への防衛反応であり、覆いあるいは容器、ーー《症状の形式的覆い[ l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン, E66, 1966)ーーすなわち原症状[S1 ]の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、異者としての身体[Fremdkörper]として影響をもったまま居残っている。


フロイトはヒステリーの事例にて、「身体からの反応[Somatisches Entgegenkommen]」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「身体からに反応」とは、いわゆる「欲動の根[Triebwurzel]」、あるいは「固着点[Stelle der Fixierung]である。われわれは、ラカンに従って、この固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,2004



このポール・バーハウの言っていることは、すべてラカンのセミネールⅩに既に現れている。



対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido (Lacan, S10, 26 Juin 1963)

異者としての身体問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,… absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

享楽は残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963

フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste, (Lacan, S10, 23 Janvier 1963



これについてはバーハウと同じ2004年に、ジャック=アラン・ミレールがほとんど同じことを言っている(ミレール版セミネールⅩ「不安」を上梓した直後のセミネールで、精読して目覚めたんだろうな、ああ、ここにはすべてがある!と)。


いわゆる享楽の残滓 [reste de jouissance]。ラカンはこの残滓を一度だけ言った。だが基本的にそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって触発され、リビドーの固着点 [points de fixation de la libido]を語った。


固着点はフロイトにとって、分離されて発達段階の弁証法に抵抗するものである[C'est-à-dire ce qui chez Freud précisément est isolé comme résistant à la dialectique du développement. ]


固着は、どの享楽の経済においても、象徴的止揚に抵抗し、ファルス化をもたらさないものである[La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante, ce qui dans l'économie de la jouissance de chacun ne cède pas à la phallicisation.]  (J.-A. MILLER,  - Orientation lacanienne III-  5/05/2004)

残滓現実界のなかの異者概念(異者としての身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004



ここではフロイトから二文だけ挙げる。


固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)

常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. []daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können.  (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


より詳しく知りたいなら➡︎固着マテーム:Σ S(Ⱥ) S1S1 sans S2」。もっともこの大半は、マテームに焦点を絞っているから少し難しいかも。


基本的には、上のバーハウとミレールの簡潔な注釈でよろしい。後期ラカン、特に1974年以降のラカンの核心はセミネールⅩにほとんど現れている。


晩年のラカンのサントームとは固着、あるいは固着の残滓(a)=異者のことで、反復強迫する。で、これが「ひとりの女」のことであり、セミネールⅩⅩ「アンコール」の女性の享楽とは異なった享楽自体としての女性の享楽のこと「参照]。


ひとりの女はサントームである[une femme est un sinthome ](Lacan, S23, 17 Février 1976)

ひとりの女は異者である[une femme, …c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)



サントーム=固着=モノ=異者である。


サントームは固着である[Le sinthome est la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens(J.-A.MILLER,, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

フロイトはモノを異者とも呼んだ[das Ding…ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)



そして「ひとりの女」あるいは両性ともにある享楽自体としての「女性の享楽」は、固着の反復である。

われわれは言うことができる、サントームは固着の反復だと。サントームは反復プラス固着である。[On peut dire que le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition — NLS argument, 2021/06)


………………


簡潔版と言っておいて長くなるが、冒頭のバーハウの形式的覆いーーリアルな砂粒に対する防衛としての真珠ーーについても補っておこう(以下はみなミレールの子分系のひとたちであり、ミレールは2011年の最後のセミネールでほぼ言い切っている。現在は子分たちが徐々に消化しつつある状態)。


症状はサントームの形式的覆いである。le symptôme est l'enveloppe formelle du sinthome    (Patricio Alvarez, Escabeau, 2016)

症状は隠喩である。つまり意味の効果である。話す存在のサントームは身体の出来事であり、享楽の出現である。Le symptôme est une métaphore, c'est-à-dire, un effet de sens. Le sinthome du parlêtre est un événement de corps, une émergence de jouissance.  


サントームの身体の出来事は、還元できない症状の残滓を導入する。この残滓は隠喩の核に活動しており、消し去ることが不可能な身体の現前の徴である。この不可能なものが症状のリアルな相である。L'événement de corps du sinthome introduit le reste symptomatique irréductible, qui est actif au cœur de la métaphore, et qui signe la présence corporelle impossible à effacer. Cet impossible indexe la dimension réelle du symptôme.  (Jean-Louis Gault , Le parlêtre et son sinthome , 2016)

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する。L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021/01)