高橋悠治によるダライラマのとってもいい話がある。
数年前までは何度も引用していたのだけれど、最近はしてないから再掲するよ
雨期のダラムサラで
ダライラマ法王と音楽の話をした
音楽は文化に属する
だがブッダの教えは心の訓練で
それはつまり瞑想だ
ブッダの頃は
修行に音楽はなかった
長く引き延ばした声で経文を歌うのは
よいこととは言えない
教えより声の美しさに心が向いてしまうから
教えが他の土地に伝えられ
その土地の文化によって表現されたとき
音楽も礼拝や儀式につかわれるようになった
チベットや中国で
また日本でも
|
音楽によって
慈悲や平和と非暴力のメッセージを伝えるのはひとつのやりかただ
と法王は言われた
他方では
音楽はひとを戦いに 駆り立て
民族主義に引き込むこともある
音楽は人びとの感じ方に影響をあたえることができる
だから
あなたには責任があります
と法王は言われた
とりわけ若い人たちに対しては
ーー高橋悠治「音の静寂静寂の音」(2000)
な、こういうことなんだ 音楽に強い愛をもつ人間のひとりとしていうが。
幸福に必要なものはなんとわずかであることか! 一つの風笛の音色。――音楽がなければ人生は一つの錯誤であろう。Wie wenig gehört zum Glücke! Der Ton eines Dudelsacks. - Ohne Musik wäre das Leben ein Irrtum. Der Deutsche denkt sich selbst Gott liedersingend.(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」33番)
|
|
風笛だけでなく、魂をふくらませるポンプとしての音楽も好きだよ。でも注意しないとな、ダライラマが言ったことを。
音楽はヨーロッパ人に感性を教えたばかりでなく、もろもろの感情と感性的自我を尊ぶ能力をも教えた。〔・・・〕音楽。魂をふくらませるポンプ。異常発達し、並はずれて大きな風船となったいくつもの魂がコンサートホールの天井を下をただよい、信じがたい雑踏のなかでぶつかりあう。
マーラーは、まだ率直に、そして直接にホモ・センチメンタリスに訴えかける最後の大作曲家である。マーラー以後、音楽において感情はうさんくさいものになる。ドビッシーはわれわれを魅惑しようとはするが、心を揺りうごかそうとはしないし、ストラヴィンスキーは感情を恥じている。(クンデラ『不滅』)
|
|
ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。 (クンデラ『不滅』)
|
バッハのこよなき愛好家でありながら、魂をふくらませるポンプとしての、例えばヴェルディだってヤラレテしまうほうだ。でも、熱狂したらダメなんだろう。ワーグナーに耽溺するよりマシかもしれないけど。
イタリアのファシズムがヴェルディを利用したとしても、それはナチズムがワグナーを利用したのに比べるとはるかにつつましやかなものだ[le fascisme utilisa beaucoup moins Verdi que le nazisme Wagner]〔・・・〕。
要するに、呼びかけに応じて音を発するのが〈大地の力[forces de la Terre]〉なのか、それとも〈民衆の力[forces du Peuple]〉なのかによって、管弦楽編成をめぐる、また声ー楽器の関係をめぐる考え方は二つに分かれ、際立った違いを見せる。この違いを示す最も簡便な実例は、おそらくワグナーとヴェルディの関係だろう。ヴェルディこそ、器楽編成と管弦楽編成に対する声の関係を、しだいに重視していった作曲家だからである。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)
|
|
|