プルーストのあの長い小説における核心的記述のひとつは、次の箇所、あるいはこの前後だろう(参照:心の間歇文献)。 |
記憶の混濁 [troubles de la mémoire ]には心の間歇 [les intermittences du cœur] がつながっている。われわれの内的な機能の所産のすべて、すなわち過去のよろこびとか苦痛とかのすべて [tous nos biens intérieurs, nos joies passées, toutes nos douleurs]が、いつまでも長くわれわれのなかに所有されているかのように思われるとすれば、それはわれわれの身体の存在 [l'existence de notre corps]のためであろう、身体はわれわれの霊性が封じこまれている壺[un vase où notre spiritualité serait enclose]のように思われているからだ。(プルースト「ソドムとゴモラ」「心の間歇」の章) |
この前後の記述は、遅発性外傷障害の事例とされることもあるが、ここではそれに直接的には触れずにおく、ーー《遅発性の外傷性障害がある。〔・・・〕これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。》(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』) さて、《われわれの霊性が封じこまれている壺[un vase où notre spiritualité serait enclose]》としての身体とあった。これがまず、バルトの言う《失われた時の記憶[le souvenir du temps perdu]》、《身体の記憶[la mémoire du corps]》にかかわる。 |
私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières]、…失われた時の記憶[le souvenir du temps perdu]を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶[le corps et la mémoire]によって、身体の記憶[la mémoire du corps]によって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年) |
プルーストは小説全体の題に「心の間歇 intermittence du cœur」を考えていた時期があるのだが、「花咲く乙女たちのかげに」にも、《もっとも近い過去にささえられるかのように(その中間の年月はすべて抹殺されて)[appuyée comme à mon passé le plus récent, ce serait (toutes les années intermédiaires se trouvant abolies) ]》と"intermédiaires" という語が使われている。心の間歇とは、遠い過去の記憶が唐突に現時の感覚とつながり、中間の記憶はすべて抹殺されて、遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという意味をもっている。 |
その遠くから突然近くにやってくるものをプルーストは「異者」とも呼んだ、《異者はかつての少年の私だった[l'étranger c'était l'enfant que j'étais alors]》と。 |
私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。 je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」Le temps retrouvé (Deuxième partie) |
この異者がフロイトにおいても、レミニサンスするトラウマ的記憶である(フロイトラカンにおいて、トラウマとは「身体の出来事」と定義されており、場合によっては喜ばしいトラウマの回帰もある[参照])。フロイトには、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]、トラウマへの無意識的固着[die unbewußte Fixierung an ein Trauma]、トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]等々の表現がふんだんにあるが、これがトラウマの記憶への固着に相当し、異者にかかわる。 |
トラウマないしはトラウマの記憶は、異物(異者としての身体 [Fremdkörper] )のように作用する「das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt]〔・・・〕 この異者としての身体は、心的痛みを呼び起こし、レミニサンスをもたらす[Fremdkörper…erinnerter psychischer Schmerz …leide größtenteils an Reminiszenzen.](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要) |
そしてこれがラカンの現実界である。 |
私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる。 Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage. …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence. …la réminiscence est distincte de la remémoration (ラカン、S.23, 13 Avril 1976、摘要) |
ラカンの現実界は異者なのである。 |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
ミシェル・シュネデール、ーー彼は精神分析家であると同時に小説も書くフランスの文化官僚だが、グールド論やプルースト論、シューマン論もある。おそらくフロイトやラカンを視野に入れてだろうが、いかにもプルースト的にそのシューマン論で次のように書いている。 |
最も近くにあるものは最も異者である。すなわち近接した要素は無限の距離にある[le plus proche soit le plus étranger ; que l’élément contigu soit à une infinie distance] (Michel Schneider La tombée du jour : Schumann) |
痛みは明らかに苦しみと対立する。痛みは、消滅の・喪われた言語の、異者性・親密性・遠くにあるものの、顔あるいは仮面である[la douleur, ici nettement opposée à la souffrance. Douleur qui prend les visages, ou les masques, de la disparition, du langage perdu, de l'étrangeté, de l'intime, des lointains.](ミシェル・シュネデール『シューマン 黄金のアリア』2005年) |
痛み[la douleur]とあるが、ラカンにおいてこの痛みが享楽にかかわる。 |
疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れる始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966) |
ーーここで、フロイトの異者としての身体[Fremdkörper]をめぐる記述に、心的痛み[psychischer Schmerz]とあったことを思い出しておこう。
そして、異者とはフロイトの定義においては「固着」Fixierung のことである。 |
原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者(異者としての身体)が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, ](フロイト『抑圧』1915年、摘要) |
フロイトは後年(『終わりなき分析』1937年)、この異者をリビドー固着の残滓[Reste der Libidofixierungen]とも言うが、ラカンはこの固着と異者=対象aとを結びつけている。 |
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963) |
対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963) |
あるいは固着の残滓。 |
残滓がある。分割の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu. Ce reste, …c'est le petit(a). ](Lacan, 21 Novembre 1962) |
フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963) |
享楽は残滓 (а) による[la jouissance…par ce reste : (а) ](Lacan, S10, 13 Mars 1963) |
リビドー固着の残滓、これがレミニサンスする異者なのであり、精神分析だけではなくプルーストにおいても現れていることをここでは示した。
プルーストにはほかにも《自我でありながら自我以上のもの[moi et plus que moi ]》という表現がある。 |
自我でありながら自我以上のもの[moi et plus que moi ](内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器[le contenant qui est plus que le contenu et me l'apportait])(プルースト『ソドムとゴモラ』「心の間歇 intermittence du cœur」1921年) |
これはラカンの異者=対象aの定義のひとつ、《あなたの中のあなた以上のもの[en toi plus que toi ]》とほとんど等価である(参照)。 |
……………
さらにこうニーチェも引用しておこう。
◼️異郷にあった私自身のおのれ[mein eigen Selbst in der Fremde]の回帰 |
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偶然の事柄がわたしに起こるという時は過ぎた。いまなおわたしに起こりうることは、すでにわたし自身の所有でなくて何であろう。 Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was _könnte_ jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre! つまりは、ただ回帰するだけなのだ、ついに家にもどってくるだけなのだ、ーーわたし自身の「おのれ」が。ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。 Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle. (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと Der Wanderer」1884年) |
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◼️ 自我の異郷部分=異者としての身体=エスの欲動蠢動 |
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エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。 Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
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以上、異郷にあった私自身の己れ[mein eigen Selbst in der Fremde 」=内界にある自我の異郷部分[das ichfremde Stück der Innenwelt](異者としての身体 Fremdkörper)=エスの欲動蠢動[Triebregung des Es ]を前提に、次の文を読んでみよう。 |
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いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。 ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが? - nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht! - hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第3節、1885年) |
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すなわち「いま、異郷にあったおのれは、夜を眠らぬ魂のなかに忍びこんでくる」である。 書き手によって表現の仕方に若干の相違はあるにしろ、レミニサンス、あるいは永遠回帰する審級として、フロイトの異者としての身体 [Fremdkörper]、あるいは固着[Fixierung]概念は扇のかなめになる。 最後に固着をめぐるフロイトラカン表現群に対比表を貼りつけておこう。
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