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2021年10月11日月曜日

人が個性をもっているなら不変の刻印として永続する記憶がある


私は、フロイトラカンの核心は固着、固着と連発してるが、最も基本は、まず通常の事故としての外傷的出来事への固着から始めたらよろしい。


精神科の大先輩の話ですが、軍医として太平洋戦争に参加している人です。一九七七年にジャワで会った時には、戦争初期のジャワでの暮らしが、いかに牧歌的であったかという話を聞かせてくれました。先生はその後ビルマに行かれたのですが、そちらに話を向けても「あっ、ビルマ。ありゃあ地獄だよ」と言ってそれでおしまいでした。


ところが一九九五年の阪神淡路大地震のあとお会いした時には、「実は、今でもイギリスの戦闘機に追いかけられる夢を毎晩見るんだ」ということを言われました。震災について講演に行くと、最前列に座っているのが白髪の精神科の長老たちで、これまであまり側に寄れなかったような人たちですが、講演がすんだら握手を求めに来て「戦争と一緒だいるなら、ねえ」というようなことを言われるわけですね。神戸の震災によって外傷的な体験というものが言葉で語ってもいいという市民権を得たのだなと思いました。それまでずっと黙っておられたのですね。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



この事例であれば、イギリスの戦闘機に追いかけられた瞬間への固着だ。


外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している[Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt. ]


これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況を反復する[In ihren Träumen wiederholen diese Kranken regelmäßig die traumatische Situation; ]


また分析の最中にヒステリー形式の発作がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行に導かれる事をわれわれは見出す。それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年)




この固着を、フロイトは欲動代理(欲動の表象代理)とも言ったが、これがラカン派のS(Ⱥ)ーー「穴のシニフィアン=トラウマの表象」ーーである。


こういった話をフロイトは何度も繰り返している。ここではもうひとつだけ挙げよう。


トラウマへの無意識的固着[die unbewußte Fixierung an ein Traumaは、夢の機能[Traumfunktion]の障害のなかで最初に来るように見える。睡眠者が夢をみるとき、夜のあいだの抑圧の解放は、トラウマ的固着[traumatischen Fixierungの圧力上昇を現勢化させ、夢の作業を機能させる失敗[versagt die Leistung seiner Traumarbeit]を引き起こす傾向がある。夢の作業はトラウマ的出来事の記憶痕跡[Erinnerungsspuren der traumatischen Begebenheit]を願望実現[Wunscherfüllung]へと移行させるものだが。夢の作業の失敗という環境において起こるのは、人は眠れないことである。人は、夢の機能の失敗の恐怖から睡眠を諦める。ここで外傷神経症[traumatische Neurose ]は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々はまた認めなければならない、幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを[aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen ](フロイト『続精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933 年)


ーーここでフロイトは最後にポロッと言っている、《幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっている》と。これがラカン派の享楽の核心である。


フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[ Freud l'a découvert…une répétition de la fixation infantile de jouissance]. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours.] (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

分析経験の基盤、それは厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, […]précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)




これは中井久夫も、ラカン派ほどには幼児期の出来事への固着に集中しているわけではないにしろ、基本は同じ。

三文挙げよう。


PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


ここにある不変の刻印、あるいは異物がトラウマの核心である。


まず異物。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 (異者としての身体[Fremdkörper] )のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt]。

この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ[ welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要)


この異者の別名は残滓ーーリビドー固着の残滓[Reste der Libidofixierungen](フロイト、1937)ーーである。


残滓…現実界のなかの異物概念(異者としての身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


ラカン自身からなら、《享楽は残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ]》(ラカン, S10, 13 Mars 1963)やら、《異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste, ]》(Lacan, S10, 23 Janvier 1963)、《対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ]》(Lacan, S10, 26 Juin 1963)、《異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit…absolument étranger ]》(Lacan, S10, 30 Janvier 1963)等であり、異者をめぐる似たような言い方はふんだんにある。


次に不変の刻印。


トラウマは自己身体の出来事 もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕また疑いもなく、初期の自我への傷である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs]。〔・・・〕


このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。

これは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]。 (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)



「自己身体の出来事=トラウマへの固着=不変の個性刻印」であり、ラカンからなら、例えば次の三文に相当する(ラカンにとって現実界=トラウマであることに注意して読もう)。


症状は刻印である。現実界の水準における刻印である[Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel](Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN,  30. Nov 1974)

症状は身体の出来事である[le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps](ラカン, JOYCE LE SYMPTOME,AE.569, 16 juin 1975)

症状は現実界について書かれることを止めない[ le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel ](ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)


ーー「書かれることを止めない」とはフロイトの反復強迫のことである。《現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … fait « troumatisme ».]》(Lacan ,S21, 19 Février 1974)と言い、《欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou.]》(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)と言い、さらに最晩年には、簡潔に《現実界は書かれることを止めない[le Réel ne cesse pas de s'écrire ]》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)と言ったラカンは、欲動のリアルはトラウマの機能にあると言ったわけであり、「トラウマは反復強迫する」というある意味でごく当たり前のことを言ったのである。このトラウマとしての「書かれることを止めない」症状とは原症状=サントームのことである。サントームはS(Ⱥ)と書かれ、上にも示したようにフロイトの「欲動代理=トラウマの表象」のことである。


さらにフロイトにおいて、不変の個性刻印の反復強迫とは永遠回帰と等価である。


同じ出来事の反復[Wiederholung der nämlichen Erlebnisse]の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


これについてラカンには直接的にはないが、《現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる。le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »  》(Lacan, S16, 05  Mars  1969 )とは言っている。これを受けてジャック=アラン・ミレールはフロイトの言う「不変の個性刻印=固着」への「永遠回帰」を事実上、語っている。


享楽における単独性の永遠回帰の意志[vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

単独的な一者のシニフィアン[singulièrement le signifiant Un]…これが厳密にフロイトが固着と呼んだものである[ précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.]〔・・・〕フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



ーーフロイトラカン派においての永遠回帰とは常に同じ場処に回帰することなのである。


この「不変の個性刻印=自己身体の出来事=固着点」への回帰は、ニーチェの次の文にまずは相当する。


人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている[Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.](ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)



常に回帰する自己固有の出来事、これがフロイトの「不変の個性刻印」であり、中井久夫の「不変の刻印として永続する記憶」である。ここで、「人が個性を持っているなら、不変の刻印として永続する記憶がある」と言っておこう。永遠回帰する記憶である。これはすべての人に当てはまるか否かは別にして、最近の私は、例えば作家の文を読むとき、この不変の個性刻印を探そうとする「悪癖」を持つようになった。もちろん、フロイトに対しても例外ではない。


精神分析の起源は母の裸への固着である・・・


後に(二歳か二歳半のころ[zwischen 2 und 2 1/2 Jahren])、私の母[matrem]へのリビドーは目を覚ました[meine Libidogegen matrem erwacht ist]。ライプツィヒからウィーンへの旅行の時だった。その汽車旅行のあいだに、私は母と一緒の夜を過ごしたに違いない。そして母の裸[nudam]を見る機会 [Gelegenheit, sie nudam zu sehen]があったに違いない。…私の旅行不安[Reiseangst]が咲き乱れるのをあなたでさえ見たでしょう。(フロイト、フリース宛書簡 Brief an Fliess、4.10.1897)

quoad matrem(母として)、つまり女なるものは、母として以外には性関係へ入ることはない[quoad matrem, c'est-à-dire que La femme n'entre en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que la mère ](ラカン, S20, 09 Janvier 1973)



旅行不安[Reiseangst]の不安とは、ーー《不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]》(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)であり、そして、《すべての症状形成は、不安を避けるためのものである[alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen]》(フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年)この不安の原点には「ひとり女」がいる。


ひとりの女は異者である[une femme …c'est une étrangeté].  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

モノは母である[das Ding, qui est la mère](Lacan, S7, 16 Décembre 1959)


モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)



晩年のラカンが《フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ]》(Lacan, S23, 13 Avril 1976)と言ったとき、母は穴であり、トラウマであると言ったのである。


そして女性の享楽とは、実はモノの享楽なのである[参照]。ラカンはセミネールⅩⅩアンコールで女性の享楽についていくらの「寝言」を言ったが、あれはちょっとした解剖学的女性へのサービス(?)であり、本来の女性の享楽とは解剖学女性固有のものでは決してない。さらに女性の享楽とは異者の享楽であり、つまりトラウマの享楽、固着の享楽でもある。



異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.](フロイト『不気味なもの 』1919年)

フェティッシュとしての毛皮とビロード[Pelz und Samt]はーーずっと以前から推測されていたようにーー、垣間見られた陰毛の光景への固着[ fixieren den Anblick der Genitalbehaarung] である。(フロイト『フェティシズム』1927年)





・・・・・・・・・・・さて過剰解釈のそしりを免れるために「以下略」としておこう。


………………


ニーチェの永遠回帰については「蜘蛛の回帰」を参照されたし。過剰解釈はフロイトたちにまかせておけばよろしい。


アブラハム(1922)によれば、夢のなかの蜘蛛は、母のシンボルである。だが恐ろしいファリックマザーのシンボルである。したがって蜘蛛の不安は母の近親相姦の怖れと女性器の恐怖を表現する。おそらくあなたがたがご存知のように、神話における創造物、メドゥーサの首は、同じ去勢恐怖のモチーフに由来する。


Nach Abraham 1922 ist die Spinne im Traum ein Symbol der Mutter, aber der phallischen Mutter, vor der man sich fürchtet, so daß die Angst vor der Spinne den Schrecken vor dem Mutterinzest und das Grauen vor dem weiblichen Genitale ausdrückt. Sie wissen vielleicht, daß das mythologische Gebilde des Medusenhaupts auf dasselbe Motiv des Kastrationsschrecks zurückzuführen ist. (フロイト『新精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933年)


確かにニーチェの比喩を文字通り読めば、ファリックマザーとしての私の恐ろしい女主人[meiner furchtbaren Herrin]は夢の中に現れる。欲動代理、つまりエスの境界表象 S(Ⱥ)[boundary signifier [Grenzvorstellung ]: S(Ⱥ)]、トラウマの表象としてのあの「ひとりの女」は。これが蜘蛛の永遠回帰であるか否かについては保留しておくが。


何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。ーーああ、わたしの女主人が怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。

Was geschah mir? Wer gebeut diess? - Ach, meine zornige Herrin will es so, sie sprach zu mir: nannte ich je euch schon ihren Namen?


きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。

Gestern gen Abend sprach zu mir _meine_stillste_Stunde_: das ist der Name meiner furchtbaren Herrin.〔・・・〕

君たちは、眠りに落ちようとしている者を襲う驚愕を知っているか。ーー

Kennt ihr den Schrecken des Einschlafenden? -


足の指の先までかれは驚得する。自分の身の下の大地が沈み、夢がはじまるのだ。

Bis in die Zehen hinein erschrickt er, darob, dass ihm der Boden weicht und der Traum beginnt.


このことをわたしは君たちに比喩として言うのだ。きのう、最も静かな時刻に、わたしの足もとの地が沈んだ、夢がはじまった。

Dieses sage ich euch zum Gleichniss. Gestern, zur stillsten Stunde, wich mir der Boden: der Traum begann.


針が時を刻んで動いた。わたしの生の時計が息をした。ーーいままでにこのような静けさにとりかこまれたことはない。それゆえわたしの心臓は驚得したのだ。

Der Zeiger rückte, die Uhr meines Lebens holte Athem - nie hörte ich solche Stille um mich: also dass mein Herz erschrak.


そのとき、声なくしてわたしに語るものがあった。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ」ーー

Dann sprach es ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra?` -


このささやきを聞いたとき、わたしは驚鍔の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。しかしわたしは黙ったままだった。

Und ich schrie vor Schrecken bei diesem Flüstern, und das Blut wich aus meinem Gesichte: aber ich schwieg.


と、重ねて、声なくして語られることばをわたしは聞いた。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない」ーー

Da sprach es abermals ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht!` -

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)



ひょっとして母とは(少なくともある種の人たちにとって)ビルマにおけるイギリスの戦闘機のように、常に追いかけまくる地獄的存在なのだろうか。


(原母子関係には)母なる女の支配[une dominance de la femme en tant que mère ]がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存[dépendance ]を担う母が。(ラカン、S1711 Février 1970)

母への依存性[Mutterabhängigkeit]のなかに、 のちにパラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くべきことのようにみえるが、母に殺されてしまうという(貪り喰われてしまう?)という規則的に遭遇する不安[ regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?)]があるからである。このような不安は、小児の心に躾や身体の始末のことでいろいろと制約をうけることから、母に対して生じる憎悪[Feindseligkeit]に対応する。(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)

メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。[Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.](ラカン、S4, 27 Février 1957



ニーチェの場合、この恐ろしい女主人の永遠回帰は、母の代理人も含めてだったようだ・・・


わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹[meine Mutter und Schwester]を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつっている。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙って[in meinen höchsten Augenblicken]くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした予定不調和[disharmonia praestabilita]を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ [Aber ich bekenne, dass der tiefste Einwand gegen die »ewige Wiederkunft«, mein eigentlich abgründlicher Gedanke, immer Mutter und Schwester sind―]。 (ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのか」第8節--妹エリザベートによる差し替え前版、1888年)