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2021年10月12日火曜日

究極の「身体の記憶」

 

さて前回、ニーチェフロイトラカンそして中井久夫から「人が個性を持っているなら、不変の刻印として永続する記憶がある」(永遠回帰する記憶)と定式化した。


この永続する記憶は、身体の記憶であり、失われた時の記憶である。


私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières]、…失われた時の記憶[le souvenir du temps perdu]を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶[le corps et la mémoire]によって、身体の記憶[la mémoire du corps]によって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)


身体の記憶とは、身体の出来事の記憶、享楽の記憶である。


享楽は身体の出来事である。身体の出来事は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps. …la jouissance, …elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[ Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)



ところで、究極の「身体の記憶」とは何だろうか。



◼️胎内の記憶

胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。母が堕胎を考えると胎児の心音が弱くなるというビデオが真実ならば、母子関係の物質的コミュニケーションがあるだろう。味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。


触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口-身体-指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。


聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。


視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年 『時のしずく』所収)



胎内の記憶、これこそ究極の「永遠回帰するエロトスの記憶」であろう。



菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。……菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。…


菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)






ラカンによる享楽とは何か。そこには秘密の結婚がある。エロスとタナトスの恐ろしい結婚である[Qu'est-ce que c'est la jouissance selon Lacan ? –…Se révèle là le mariage secret, le mariage horrible d'Eros et de Thanatos. ](J. -A. MILLER, , LES DIVINS DETAILS,  1 MARS 1989)



………………


現代の科学者たちのあいだでは次のような話がある。


何人かの研究者が信じているのは、コピュリンと呼ばれる女性のヴァギナホルモンは、テストステロン(男性ホルモン)のレベルを上げて性欲を増大させるということだ[female vaginal hormones called copulins that some researchers believe raise testosterone levels and increase sexual appetite in men](Bruce Fink, Lacan on Love: An Exploration of Lacan's Seminar VIII, 2017)


だがこれは、ある意味で、原因と結果を取り違えているという言い方ができるかもしれない。ヴァギナフェロモン自体が性欲ーーフロイトは性欲動[Sexualtriebe]愛の欲動[Liebestriebe]としている[参照]ーーを増大させるというよりも、胎内の記憶、母胎内で女性フェロモンを浴びた記憶があってこその性欲動の発動であろう。


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, …eine solche Rückkehr in den Mutterleib. ](フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)

欲動は心的生に課される身体的要求である[Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年)



ここでも中井久夫のフェロモンをめぐる記述を掲げておこう。


◼️母胎内での無時間的フェロモンの香り

母子の時間の底には無時間的なものがある。母の背に負われ、あるいは懐に抱かれたならば、時間はもはや問題ではなくなる。父子にはそれはない。父親と過ごす時間には過ぎゆくものの影がある。長い時間の釣りでさえ、ハイキングでさえ、終わりがある。終わりの予感が、楽しい時間の終末部を濃く彩る。


友人と過ごす時間には、会うまでの待つ楽しさと、会っている最中の終わる予感とがある。別れの一瞬には、人生の歯車が一つ、コトリと回った感じがする。人生の呼び戻せなさをしみじみと感じる。それは、友人であるかぎり、同性異性を問わない。恋人と言い、言われるようになると、無時間性が忍び寄ってくる。抱き合う時、時間を支配している錯覚さえ生じる。もっとも、それは、夫婦が陥りがちな、延びきったゴムのような無時間性へと変質しがちで、おそらく、離婚などというものも、この弾力性を失った無時間性をベースとして起るのだろう。


この無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年初出『時のしずく』所収)