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2021年10月10日日曜日

反ポピュリズムのために

 きみ、多くの人が言っているから、矢野財務事務次官の考えはおかしい、というのは典型的ポピュリズムだよ。財政についてまともに考えている人物は、日本には一万人に一人、ひょっとして十万人に一人しかいない。この人たちはめったに表に出てこない。矢野康治の出現は、その人物のひとりが「捨て身で」出てきた稀な事例だ。彼の言っていることがすべて正しいとは私は決して言わない。だが最低限、彼のスタンスはどこから出てきたのかを推測して、まずはいくつかの基本的な問いを発するべきだ。

例えばーー、


・なぜ日本は世界一の少子高齢化社会なのに、欧米諸国よりも低い税率あるいは国民負担率のままなのか。


・なぜ日本は1990年以降の30年間で国の借金を雪だるまのように増やして6倍超になったのか。


・なぜ日本の経済成長が今後もありうるという政治家たちがいるのか。生産年齢人口が年率1パーセント弱減ってゆく国でーー総人口減の始まり2008年ではなく、生産年齢人口減は1995年から始まっているーー、経済成長の事例は今までの世界史にあったのか。


・なぜ政治家たちは、世界的に突出した日本の財政赤字なのに、とくに選挙前になると軒並み、「バラマキ政策」ーー事実上の「財政ファイナンス政策」ーーを提示し続けるのか。コロナ危機で世界先進諸国においても赤字国債の大量発行があったが、ヨーロッパ主要国では既にその赤字を埋め合わせる増税案を提出しつつある。なぜ日本ではいまだこれが議論にさえも出てこないのか。


・なぜ日本の公衆の多くは「バラマキ政策」を支持する政治家や経済評論家たちの言葉を鵜呑みにするだけで、他諸国の事例とわずかでも比較してみることをしないのか。


これらは限定された問いのいくつかに過ぎないが、こういった問いを発することこそ、ポピュリズムに侵されないための最も古典的な「哲学的」態度ではないか。



…その後旅に出て、われわれの考えとは全く反対な考えをもつ人々も、だからといって、みな野蛮で粗野なのではなく、それらの人々の多くは、われわれと同じくらいに或いはわれわれ以上に、理性を用いているのだ、ということを認めた。そして同じ精神をもつ同じ人間が、幼時からフランス人またはドイツ人の間で育てられるとき、かりにずっとシナ人や人喰い人種の間で生活してきたとした場合とは、いかに異なった者になるか、を考え、またわれわれの着物の流行においてさえ、十年前にはわれわれの気に入りまたおそらく十年たたぬうちにもういちどわれわれの気に入ると思われる同じものが、いまは奇妙だ滑稽だと思われることを考えた。そしてけっきょくのところ、われわれに確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにく真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であるということのほうがはるかに真実らしく思われるのだから、そういう真理にとっては賛成者の数の多いことはなんら有効な証明ではないのだ、ということを知った。こういう次第で私は、他をおいてこの人の意見をこそとるべきだと思われるような人を選ぶことができず、自分で自分を導くということを、いわば、強いられたのである。(デカルト『方法序説』1637年)


私は、大衆から迷信を取り去ることは恐怖を取り去ることと同時に不可能であることを知っている。最後に、大衆が自己の考えを変えようとしないのは恒心ではなくて我執なのであること、また大衆はものを賞讃したり非難したりするのに理性によって導かれず衝動によって動かされることを知っている。ゆえに、大衆ならびに大衆とともにこうした感情にとらわれているすべての人々に私は本書を読んでもらいたくない、否、私は、彼らが本書を、すべてのものごとに対してそうであるように、見当違いに解釈して不快な思いをしたりするよりは、かえって本書を全然顧みないでくれることが望ましい。彼らは本書を見当違いに読んで自らに何の益がないばかりか、他の人々に、――理性は神学の婢でなければならぬという思想にさまたげられさえしなかったらもっと自由に哲学しえただろう人々に、邪魔立てするだろう。実にそうした人々にこそ本書は最も有益であると、私は確信するのに。(スピノザ『神学・政治論』1670年序文)


………………


私が冒頭に記したことを、より具体的に、さらに子供にもわかるようにいえば、次のことだ。