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2021年10月10日日曜日

未生の告白

 


例えば暁方ミセイの「告白」にはこうある。


外側へ、

咲けるだけ咲く。

衝動を愛に摩り替えて、ぶちまける。

感情を吐き続ける目と口の、

奥に真っ黒な自己愛が光っている。

そうして育つことなく撒き散らされた種子を

彼女は自ら眺めて満足し、

恋は終わったのだと、人に話してまわる。



ここには愛とは何かを問うた、真の詩人の姿がある。


「衝動を愛に摩り替えて」とは、フロイト用語では「欲動を対象愛に摩り替えて」である。ラカン用語では、欲動ーーフロイトは「愛の欲動」Liebestriebeとも言ったーーは享楽、対象愛は欲望であり、欲望は享楽のシニフィアン化、すなわち見せかけ化である。


享楽のシニフィアン化をラカンは欲望と呼んだ[la signifiantisation de la jouissance…C'est ce que Lacan a appelé le désir. (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

見せかけはシニフィアン自体だ! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](ラカン、S18, 13 Janvier 1971


見せかけを外部にぶちまけても、それは単に嘘でしかない。「真っ黒な自己愛」しかない。これがナルシシズムだ。


あの八行には、欲動=享楽という現実界、対象愛=欲望という象徴界、自己愛=ナルシシズムという想像界、すべてが書かれている。


ここでは、このように彼女の詩句をフロイトラカン用語で解釈してしまう「はしたなさ」を許していただくことを願う。というのは、巷間ではあまりにも安上がりに使われている「愛」という言葉を、真の詩人はどうやって使っているかを、精神分析的観点からも示すための「はしたなさ」だから(そもそもミセイは「愛」という語を稀にしか使わない)。


さらに続けよう。


ミセイは愛とは何かを、あの八行の詩句を中心にして、痛々しい形で問うている。愛とはいったいなに? この残酷なものは?


人には愛の条件の固着がある。


忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour  (Lacan, S9, 21  Mars 1962)

愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, []Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015


ラカンは固着を穴とした。穴とはトラウマ、傷のことである(フロイトの『モーセ』(1939)における、病因的トラウマ[ätiologische Traumen]=自己身体の出来事[Erlebnisse am eigenen Körper ]=初期の自我への傷[frühzeitige Schädigungen des Ichs ]=固着[Fixierung])。


われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)

傷ついた享楽[jouissance blessée](Colette Soler, Les affects lacaniens 2011


愛の条件には傷があるのである。リアルな愛は真に傷にある、ーー《享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ]》(Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)



ここでジョー・ブスケに登場願おう。


われわれは傷ついている。だから傷つけずには愛しえない[C'est parce que nous sommes blessés que nous ne pouvons aimer qu'en blessant (ジョー・ブスケ Joë Bousquet, Mystique)


暁方ミセイは「告白」という詩で、人は「傷つけずには愛しえない」ことを歌っている。あまりにも生々しい詩であり、彼女の詩のなかでは傑作とは言い難いが、敢えて取り上げてみた。