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2020年11月7日土曜日

蜘蛛の回帰

 以下、蜘蛛の回帰文献である。そして今でも神秘的に語られることの多い「永遠回帰」概念の脱神秘化のための文献でもある。

ああ、せつなや! 時間はどこへ行ってしまったのか。わたしは深い泉のなかへ沈んでしまったのではなかろうか。世界は眠るーー


Wehe mir! Wo ist die Zeit hin? Sank ich nicht in tiefe Brunnen? Die Welt schläft -

  

ああ! ああ!  犬がほえる、月は照っている。むしろわたしは死にたいと思う、わたしの真夜中の心がいまちょうど考えていることをおまえたちに言うよりは。


Ach! Ach! Der Hund heult, der Mond scheint. Lieber will ich sterben, sterben, als euch sagen, was mein Mitternachts-Herz eben denkt.  


もうわたしは死んだ。事はおわった。蜘蛛よ、なぜおまえはわたしを糸でからむのか。血が欲しいのか。ああ! ああ! 露が降りてくる。時がせまる。


Nun starb ich schon. Es ist dahin. Spinne, was spinnst du um mich? Willst du Blut? Ach! Ach! der Thau fällt, die Stunde kommt -  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第4節、1885年)


月光をあびてのろのろと匍っているこの蜘蛛、またこの月光そのもの、また門のほとりで永遠の事物についてささやきかわしているわたしとおまえーーこれらはみなすでに存在したことがあるのではないか。


diese langsame Spinne, die im Mondscheine kriecht, und dieser Mondschein selber, und ich und du im Thorwege, zusammen flüsternd, von ewigen Dingen flüsternd - müssen wir nicht Alle schon dagewesen sein?

そしてそれらはみな回帰するのではないか、われわれの前方にあるもう一つの道、この長いそら恐ろしい道をいつかまた歩くのではないかーーわれわれは永遠回帰する定めを負うているのではないか。 」


- und wiederkommen und in jener anderen Gasse laufen, hinaus, vor uns, in dieser langen schaurigen Gasse - müssen wir nicht ewig wiederkommen? -"(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「 幻影と謎 Vom Gesicht und Räthsel」 第2節、1884年)


お前は、お前が現に生き、既に生きてきたこの生をもう一度、また無数回におよんで、生きなければならないだろう。そこには何も新しいものはなく、あらゆる苦痛とあらゆる悦[jeder Schmerz und jede Lust]、あらゆる想念と嘆息、お前の生の名状しがたく小なるものと大なるもののすべてが回帰するにちがいない。しかもすべてが同じ順序でーーこの蜘蛛、樹々のあいだのこの月光も同様であり、この瞬間と私自身も同様である。存在の永遠の砂時計はくりかえしくりかえし回転させられる。ーーそしてこの砂時計とともに、砂塵のなかの小さな砂塵にすぎないお前も!」

 »Dieses Leben, wie du es jetzt lebst und gelebt hast, wirst du noch einmal und noch unzählige Male leben müssen; und es wird nichts Neues daran sein, sondern jeder Schmerz und jede Lust und jeder Gedanke und Seufzer und alles unsäglich Kleine und Große deines Lebens muß dir wiederkommen, und alles in derselben Reihe und Folge – und ebenso diese Spinne und dieses Mondlicht zwischen den Bäumen, und ebenso die ser Augenblick und ich selber. Die ewige Sanduhr des Daseins wird immer wieder umgedreht – und du mit ihr, Stäubchen vom Staube!« (ニーチェ『悦ばしき知』341番、1882年)




あとは苦痛と悦にかかわる蜘蛛とは、より具体的に何かを問えばよい。



苦痛と悦は力への意志と関係する。Schmerz und Lust im Verhältniß zum Willen zur Macht.  (ニーチェ遺稿、1882 – Frühjahr 1887)

私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力」に戦慄するのを見てとった。Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs (ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」『偶像の黄昏』1888年)

すべての欲動力(すべての駆り立てる力 )は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt... (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)




苦痛のなかの悦[Schmerzlust]は、マゾヒズムの根である。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年、摘要)

フロイトは書いている、「悦はその根にマゾヒズムがある」と。[FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »](ラカン, S16, 15 Janvier 1969)

我々は、フロイトがLustと呼んだものを悦と翻訳する。ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance. (Jacques-Alain Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)

悦の意志は欲動の名である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)

すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(Lacan, Position de l'inconscient, E848, 1964年)




ニーチェにとって蜘蛛は身体の出来事ーーフロイトラカンの定義ではトラウマーーではなかろうか。


もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)

悦はまさに固着である。人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)

悦における単独性の永遠回帰の意志がある。c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 juin 2009)

悦は身体の出来事である。悦はトラウマの審級にあり、固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. […] la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, […] elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

フロイトが固着と呼んだものは、悦の固着である。ce que Freud appelait […]la fixation.[…]c'est une fixation de jouissance. ( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)




トラウマは自己身体の出来事 もしくは感覚知覚 である。〔・・・〕これは、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]と「反復強迫[Wiederholungszwang]の名の下に要約される。それは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印[unwandelbare Charakterzüge]と呼びうる。

Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen, […] Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

同一の体験の反復の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは(ニーチェの)同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)



ーー《われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.》(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)



ニーチェの「傷つけることを止めないもの」は、ラカンの「書かれることを止めないもの」ーーフロイトのエスの反復強迫ーーとほとんど等価である。


「記憶に残るものは灼きつけられたものである。傷つけることを止めないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。»Man brennt etwas ein, damit es im Gedächtnis bleibt: nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis« - das ist ein Hauptsatz aus der allerältesten (leider auch allerlängsten) Psychologie auf Erden.(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)

これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学と力への意志[Willens zur Macht]展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。〔・・・〕


Die gesammte Psychologie ist bisher an moralischen Vorurtheilen und Befuerchtungen haengen geblieben: sie hat sich nicht in die Tiefe gewagt. Dieselbe als Morphologie und Entwicklungslehre des Willens zur Macht zufassen, wie ich sie fasse 

心理学者は…少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび諸科学の女王 [Herrin der Wissenschaften]として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。

- wird zum Mindesten dafuer verlangen duerfen, dass die Psychologie wieder als Herrin der Wissenschaften anerkannt werde, zu deren Dienste und Vorbereitung die uebrigen Wissenschaften da sind. Denn Psychologie ist nunmehr wieder der Weg zu den Grundproblemen.(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年)




現実界は書かれることを止めない[le Réel ne cesse pas de s'écrire ](ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

フロイトにとって症状は反復強迫[compulsion de répétition]に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]に見出されると。フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は、行使されることを止めないもの[ne cesse pas de s'exercer]である. (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)


悦は現実界である。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを発見したのである。la jouissance c'est du Réel. […], Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert (ラカン、S23, 10 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel […] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)



ここで『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレから引こう。


悦が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.


…すべての悦は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第9節1885年)

悦が欲しないものがあろうか。悦は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。悦のなかに環の意志が円環している。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年)

完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがう!"Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!" (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第9節)



フロイトラカンにおいて原トラウマは出産外傷である。


出産外傷 Das Trauma der Geburt、つまり出生という行為は、一般に「母への原固着」[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなう。…これが「原トラウマ Urtrauma」である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)

原初に何かが起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつてAの形態[ la forme A]を取った何かを生み出させようとして、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させようとして faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)


不安は対象を喪った反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる。Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand. (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない。Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz; (フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


フロイトの観点では、悦の不安との関係は、ラカンが同調したように、不安の背後にあるものである。欲動は、満足を求めるという限りで、絶え間なき執拗な悦の意志[volonté de jouissance insistant sans trêve.]としてある。


欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快ある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse.。これをラカン は一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は悦以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( S17, 1970)ーー、すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose]。定式は《不安は現実界の信号l'angoisse est signal du réel》である。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004)


モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

モノは悦の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)



ここでニーチェは次のように告白していることを思い出しておこう(参照)。


しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ [Aber ich bekenne, dass der tiefste Einwand gegen die »ewige Wiederkunft«, mein eigentlich abgründlicher Gedanke, immer Mutter und Schwester sind―]。 (ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのか」第8節--妹エリザベートによる差し替え前版、1888年)





………………



反復のメカニズムを簡潔に示しておく。


1と身体がある[Il y a le Un et le corps]

まさに悦がある。1と身体の結びつき、身体の出来事が。[il y a précisément la jouissance, la conjonction de Un et du corps, l'événement de corps ](J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN – 18/05/2011)

反復においてそれ自身を反復するのは、ひたすら1である。しかしこの1は身体ではない。1と身体がある。[Il n'y a que le un qui se répète dans l'itération. Mais cet Un n'est pas le corps. Il y a le Un et le corps. ](Hélène Bonnaud, Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse ,2013)


この「1」とはシニフィアンである。そして《1と身体がある[Il y a le Un et le corps]》の身体とは、身体的残滓ということである。この残滓を取り戻そうとする不可能な運動を「反復強迫」と呼ぶ。


フロイトの反復は、心的装置に同化されえない現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。


La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)


ラカン図式を使って「蜘蛛」に当て嵌めれば、こうなる。




ーーより一般的には、この図の蜘蛛の箇所にPTSD患者が襲われる静止画像(その反復)をおけば、外傷性神経症図となる。トラウマは永遠回帰する。


この《1と身体概念ある[Il y a le Un et le corps]》は、フロイトの異物(異者としての身体Fremdkörper)概念を使って言えば、《1と異者としての身体がある[Il y a le Un et le corps étranger]》である。


われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(異者身体)(ラカン、S23、11 Mai 1976)

悦は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)

異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

現実界のなかの異物概念は明瞭に、悦と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



より馴染みやすいだろう、中井久夫の文も付け加えておこう。


外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



中井久夫は喜ばしい外傷性記憶もあることも示している。



PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)



この定義ならプルーストの無意志的回想あるいはレミニサンスも外傷性記憶にかかわるだろうし、実際、中井久夫は後にそれを示唆している。