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2020年11月7日土曜日

言語は父の名かつ超自我である

 

いや、「ドゥルーズの大きな欠陥」で示したことは、別の言い方をすれば、超自我や自我理想を思考する上で、ドゥルーズ は言語についての考えが足りないんだよ。


言語とはたんにコミュニケーションの道具ではなく、自我を超えてわれわれを支配しているものだ、というのがラカン派の観点。ーー《フロイトの視点に立てば、人間は言語によって檻に入れられ拷問を被る主体である。Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage》(ラカン, S3, 16 mai 1956)


言語は父の名である。言語は超自我でさえある。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi. ( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96)


この観点をとらなかったら、では言語とはなんだい? 


言語が父の名や超自我であるということは、たとえば使用する言語で世界は異なって見えるということ。


ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。(ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1986年)


ロラン・バルトが、日本旅行記(『記号の国』)で触れた「サピア・ウォーフの仮説 Sapir-Whorf hypothesis」も基本的にはニーチェと同様の観点。


人間は単に客観的な世界に生きているだけではなく、また、通常理解されるような社会的行動の集団としての世界に生きているだけでもない。むしろ、それぞれに固有の言語に著しく依存しながら生きている。そして、その固有の言語は、それぞれの社会の表現手段となっているのである。こうした事実は、“現実の世界”がその集団における言語的習慣の上に無意識に築かれ、広範にまで及んでいることを示している。どんな二つの言語でさえも、同じ社会的現実を表象することにおいて、充分には同じではない。. (Sapir, Mandelbaum, 1951)




ジャック=アラン・ミレール のいっていることに戻れば、父の名としての言語と超自我としての言語は次の通り。


ラカンは言語の二重の価値を語っている。「実体のない意味媒体」と「言葉のモノ性」の二つである。Lacan fait référence à la double valence du langage, à la fois véhicule du sens qui est incorporel et de la matérialité des mots (ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, Parler lalangue du corps,  2016)


前者は通常の成人型言語、後者はエディプス期以前の幼児型言語で、ララングlalangue (=母の言葉)と呼ぶ。


ララング Lalangue は象徴界的なものではなく、現実界的 なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外[hors chaîne] のものであり、したがって意味外[hors-sens]にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる[le signifiant devient réel quand il est hors chaîne] )。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé, 2009)

ララング Lalangue が、母の言葉[la dire maternelle]と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている[liée au corps à corps des premiers soins ]から。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)


ラカンマテームで示せば、

・象徴界の審級にある父の名は、徴示化ペアS1-S2[la paire signifiante S1-S2]

・現実界の審級にある超自我は、一つきりのS1[le S1 tout seul]、S2なきS1[S1 sans S2]、あるいは S(Ⱥ) にかかわる。


ラカンの父の名は、同じ「ドゥルーズの大きな欠陥」で示したように、フロイトの自我理想であり、フロイトは言語が自我理想だとは直接的には言っていないが、次の二文をともに読めば、事実上、そう言っていると読める。


言語は、個々人相互の同一化に大きく基づいた、集団のなかの相互理解適応にとって重要な役割を担っている。Die Sprache verdanke ihre Bedeutung ihrer Eignung zur gegenseitigen Verständigung in der Herde, auf ihr beruhe zum großen Teil die Identifizierung der Einzelnen miteinander.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)

原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章)



こういった文脈のなかで示した図が次のものだよ。





超自我S(Ⱥ)とは前期ラカンは母なる超自我[surmoi maternel]と呼んだが、後年、一般化されて超自我自体となる。そしてこのS(Ⱥ)は原症状としてのサントームのことでもある。


シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される。c'est sigma, le sigma du sinthome, […] que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)


さらにこのサントームの基盤には、上に記したララング(母の言葉)がある。


サントーム(原症状)は、母の言葉に起源がある。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。 これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす。人はそこから分離しなければならない。 Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. L'enfant qui apprend à parler reste marqué à vie à la fois par les mots et la jouissance de sa mère . Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère », dont il devra se séparer. (Geneviève Morel,  Sexe, genre et identité, 2005)


ーー母の法とは母なる超自我と等価。


ま、ドゥルーズ ファンの方は、以上に示したことにせいぜい抵抗してみることだね。