いや、「ドゥルーズの大きな欠陥」で示したことは、別の言い方をすれば、超自我や自我理想を思考する上で、ドゥルーズ は言語についての考えが足りないんだよ。 言語とはたんにコミュニケーションの道具ではなく、自我を超えてわれわれを支配しているものだ、というのがラカン派の観点。ーー《フロイトの視点に立てば、人間は言語によって檻に入れられ拷問を被る主体である。Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage》(ラカン, S3, 16 mai 1956) |
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言語は父の名である。言語は超自我でさえある。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi. ( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96) |
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この観点をとらなかったら、では言語とはなんだい? 言語が父の名や超自我であるということは、たとえば使用する言語で世界は異なって見えるということ。
ジャック=アラン・ミレール のいっていることに戻れば、父の名としての言語と超自我としての言語は次の通り。 |
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ラカンは言語の二重の価値を語っている。「実体のない意味媒体」と「言葉のモノ性」の二つである。Lacan fait référence à la double valence du langage, à la fois véhicule du sens qui est incorporel et de la matérialité des mots (ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, Parler lalangue du corps, 2016) |
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前者は通常の成人型言語、後者はエディプス期以前の幼児型言語で、ララングlalangue (=母の言葉)と呼ぶ。 |
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ララング Lalangue は象徴界的なものではなく、現実界的 なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外[hors chaîne] のものであり、したがって意味外[hors-sens]にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる[le signifiant devient réel quand il est hors chaîne] )。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé, 2009) |
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ララング Lalangue が、母の言葉[la dire maternelle]と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている[liée au corps à corps des premiers soins ]から。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011) |
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ラカンマテームで示せば、 ・象徴界の審級にある父の名は、徴示化ペアS1-S2[la paire signifiante S1-S2] ・現実界の審級にある超自我は、一つきりのS1[le S1 tout seul]、S2なきS1[S1 sans S2]、あるいは S(Ⱥ) にかかわる。 |
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ラカンの父の名は、同じ「ドゥルーズの大きな欠陥」で示したように、フロイトの自我理想であり、フロイトは言語が自我理想だとは直接的には言っていないが、次の二文をともに読めば、事実上、そう言っていると読める。 |
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言語は、個々人相互の同一化に大きく基づいた、集団のなかの相互理解適応にとって重要な役割を担っている。Die Sprache verdanke ihre Bedeutung ihrer Eignung zur gegenseitigen Verständigung in der Herde, auf ihr beruhe zum großen Teil die Identifizierung der Einzelnen miteinander.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年) |
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原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章) |
こういった文脈のなかで示した図が次のものだよ。
超自我S(Ⱥ)とは前期ラカンは母なる超自我[surmoi maternel]と呼んだが、後年、一般化されて超自我自体となる。そしてこのS(Ⱥ)は原症状としてのサントームのことでもある。 |
シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される。c'est sigma, le sigma du sinthome, […] que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001) |
さらにこのサントームの基盤には、上に記したララング(母の言葉)がある。 |
サントーム(原症状)は、母の言葉に起源がある。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。 これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす。人はそこから分離しなければならない。 Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. L'enfant qui apprend à parler reste marqué à vie à la fois par les mots et la jouissance de sa mère . Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère », dont il devra se séparer. (Geneviève Morel, Sexe, genre et identité, 2005) |
ーー母の法とは母なる超自我と等価。 |
ま、ドゥルーズ ファンの方は、以上に示したことにせいぜい抵抗してみることだね。