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2021年10月24日日曜日

なぜ間抜けなのか、政治学者や社会学者、心理学者や哲学者等は?

 最も重要なのは「下部構造が上部構造を規定する」を視界に入れて思考しているかどうかだよ。フロイトには重層的決定[ Überdeterminierung]という概念(参照)があり、必ずしもすべてを下部構造で片付けうるわけではないにしろ。


二十世紀をおおよそ1914年(第一次大戦の開始)から1991年(冷戦の決定的終焉)までとするならば、マルクスの『資本論』、ダーヴィンの『種の起源』、フロイトの『夢解釈』の三冊を凌ぐものはない。これらなしに二十世紀は考えられず、この世紀の地平である。


これらはいずれも単独者の思想である。具体的かつ全体的であることを目指す点で十九世紀的(ヘーゲル的)である。全体の見渡しが容易にできず、反発を起こさせながら全否定は困難である。いずれも不可視的営為が可視的構造を、下部構造が上部構造を規定するという。実際に矛盾を含み、真意をめぐって論争が絶えず、むしろそのことによって二十世紀史のパン種となった。社会主義の巨大な実験は失敗に終わっても、福祉国家を初め、この世紀の歴史と社会はマルクスなしに考えられない。精神分析が治療実践としては廃れても、フロイトなしには文学も精神医学も人間観さえ全く別個のものになったろう。(中井久夫「私の選ぶ二十世紀の本」初出1997、『アリアドネからの糸』所収)


ラカン派語彙で言えば、下部構造は現実界、上部構造は象徴界(プラス想像界)だ。


象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属しているのである[L'ordre symbolique est maintenant reconnu comme un système de semblants qui ne commande pas au réel, mais lui est subordonné. ](J.-A. Miller, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT, 2014


ーー《フロイトはその理論の最初から、症状には二重の構造があることを識別していた。一方には「欲動」、他方には「心的なもの」である。(・・・〕享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。》(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way 、2002)。


愛の想像界は欲望の象徴界によって構造化されているので、通常ラカン派では「現実界/象徴界プラス想像界」として語られることが多い。



私にはほとんど無知のダーヴィンを外して、マルクスとフロイトラカン用語をボロメオの環におけば次の通り。




ーーグレーに塗った箇所が上部構造だ。


私が巷の政治学者や社会学者、それに心理学者や哲学者等をバカにすることが多いのは、下部構造がほとんど視野に入ってないせいだよ。で、心理学者にはもちろん三文精神分析家も含む。