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2021年11月11日木曜日

21世紀というポルノグラフィの時代

この柴田英里さんの提議はとてもいい。現代のイデオロギーを分析するためには、このような「分類」が欠かせない。


柴田英里 @erishibata Nov 3


【シンポジウム開催概要】


現在、インターネット上では、女性表象が炎上する事例が多くあります。また、その際には、ジェンダー・フェミニズムやポリティカル・コレクトネスの観点から表現を批判する声が多く寄せられることがあります。(1)


しかし、ジェンダースタディーズやフェミニズムは一枚岩ではなく、かつてはジェンダー・フェミニズムの観点から性表現を肯定する動きもありました。また、性表現の領域で活躍する女性表現者や、女性鑑賞者の存在を無視することは、現代女性の自由や欲望を考える上でも大きな損失となりえます。(2)


こうした社会状況を憂慮し、オンラインシンポジウム【女性と性表現 ―表現者・ファンの視点から―】を2021年11月28日、12月05日の2日間に渡りZOOMにて開催することにいたしました。(3)


本シンポジウムは、「女性表現者の性表現」「性表現の女性ファン」などをテーマに、様々な登壇者の発表と参加者を交えたディスカッションを通じて、性表現の領域には実在の女性表現者・女性鑑賞者が存在すること、その歴史や意義をあらためて提示し、記録として残すことを目的としています。(4)



もっとも私が「いい」と感じるのは、彼女の意図に反してそうなのかもしれないが。


とりあえずこう置いてみよう。




ーーサブカルのところには「オタク」とか「主流ネット民」とかのほうがいいかもしれないが、ここでは古い用語を選択した。


そして、今まで何度か引用しているが、サブカル・フェミニズム・性的自由は、21世紀の支配的イデオロギーだとする三人の論者の文を再掲してみよう。



私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


現在の状況のもとでとくに大切なことは、支配的イデオロギーと支配しているかに見えるイデオロギーとを混同しないように[not to confuse the ruling ideology with ideology which seems to dominate]特に注意することだ。われわれは、これまで以上に、ヴァルター・ベンヤミンが遺してくれた注意事項を心に留めなければならない。その注意事項とは、ある理論(あるいは芸術)が社会闘争に関わる自分の立ち位置をどのように決定するかを訊ねるだけでは不十分であり、それが闘争においてどのようなアクチュアルな機能を発揮しているかもまた問われねばならない、というものである。 


例えば、セックスで真のヘゲモニーを掌握している考え方は家父長制的な抑圧などではなく自由な乱交である。芸術で言えば、悪名高い「センセーショナル」展覧会と銘打ったスタイルでなされる挑発が規範 norm に他ならなず、それは体制に完全に併合されてしまっている芸術の典型事例である。 (ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』2002年)


セクシャリティとエロティシズムの問題において、現在ーー少なくとも西側先進諸国のあいだではーーほとんど何でも可能だ。これは、この20年間のあいだに倒錯のカテゴリーに含まれる症状の縮小をみればきわめて明白だ。現代の倒錯とは、結局のところ相手の同意(インフォームドコンセント)の逸脱に尽きる。この意味は、幼児性愛と性的暴力が主である、それだけが残存する倒錯形式のみではないにしろ。実際、25年前の神経症社会に比較して、現代の西洋の言説はとても許容的で、かつて禁止されたことはほとんど常識的行為となっている。避妊は信頼でき安い。最初の性行為の年齢は下がり続けている。セックスショップは裏通りから表通りへと移動した。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject、2005)



さてどうなんだろう。フェミニズムと性的自由は支配的イデオロギーなのかそうではないのか。かりに欧米先進諸国ではそうであっても日本では違うのか?



ラカンの娘婿ジャック=アラン・ミレール(現代主流臨床ラカン派のボス)は、ポルノについて2014年に次のように言っている。


◼️ヴィクトリアからポルノへ

精神分析は変貌している。 〔・・・〕


たとえば、ある断絶を我々は見逃すことはありえない。フロイトが精神分析を発明したのは、ヴィクトリア朝支配、セクシャリティ圧制の典型のいわば後ろ楯のもとでだ。他方、21世紀は、「ポルノ」よ呼ばれるもののとてつもない氾濫である。それは見せ物としての性交に到る。ウェブ上で、マウスの単純なワンクリックによって、誰にでもアクセス可能なスペクタクル。


ヴィクトリアからポルノへ。我々はただ禁止から許容へと移行したのではない。そうではなく、刺激・侵入・挑発・強制への移行だ。かつての幻想とは異なったポルノグラフィとは何だろう?あらゆる多様な倒錯性向を満足させるに充分なヴァラエティが映しだされるあのポルノは?


これは、セクシャリティにおいて、また社会制度において、新しい何かだ。若者のあいだでのその習得を促すパターンのなか、彼らはただひたすらこの道のりを歩み始める。〔・・・〕


◼️男の性の弱体化

ポルノグラフィに触れると、弱くなる性は男の性だ。男たちのほうがいっそう容易に受け入れるから。我々は分析において、どんなにしばしば聞いただろう、あれらポルノの浮かれ騒ぎをやってみたいという強迫観念の不平不満を。彼らはハードディスクにストックしてさえいる。


他方、妻や恋人の側では、女たちは、パートナーの実践を自ら知っているにもかかわらず、彼らに比べてやってみることは相対的に少ない。そのときどうなるか? 場合によりけりだ。女は裏切りと思うかもしれない。取るに足らない娯楽と思うかもしれない。


ポルノグラフィの臨床は、21世紀に属する。私はいまそれに言い及んでいる。しかし、それは詳細に観察されるに値する。というのは、それはしつこく己れを主張し、この15年のあいだ、分析治療において際立って現前するようになったから。


◼️バロック時代と現代社会

とはいえ我々は、このまさに現代的な慣習をめぐって思いを馳せざるをえない。ラカンによって指摘されたこと、すなわち芸術におけるキリスト教信仰の影響の高揚として、バロックの最盛期に実現された影響を。イタリアとその教会の周遊旅行から戻ってきてすぐ、ラカンはぴったりと「オーギー orgie (狂宴)」に言及した。ラカンは、セミネール「アンコール」にて、注意を促した。あれらすべての身体の露出は、享楽を呼び起こすことに相当する、と。


これが、我々がポルノグラフィティとともにある場だ。しかしながら、恍惚感をもたらす身体の宗教的露出は、性交自体に対しては、常に「オフ・スクリーン」のままだった。ラカンが観察したように、「人間の現実性」のなかの限界の彼方であるかのように。この「人間の現実性」の奇妙な再出現。Réalité humaine とは、ハイデガーの最初の翻訳者が Daseinと表現された語を仏語に翻訳した表現である。しかし、それは遠い昔のことだ。というのは、今ではどんな「存在」も、この Dasein への道のりから絶縁してしまっているのだから。


科学技術の時代には、性交はもはや個人の領野には限られていない。それは、我々おのおのの幻想を増長しつつ、今では表象の上演の領域に溶け込んでいる。それは大衆的な規模へと移り進んだ。


ポルノグラフィとバロックとのあいだで、強調されなけれなならない二番目の相違がある。ラカンが定義したように、バロックは、身体の観察手段、身体の凝視 “régulation de l'âme par la scopie corporell ”を通して、魂の統御を図った。ポルノグラフィにはそんなものは微塵もない。何の統御もなく、むしろ絶え間ない侵犯がある。


ポルノグラフィにおける身体の凝視は、享楽に向かった「ひと突きnudge」として機能する。「剰余享楽」の型に従って満足させられるように図られた享楽への促し。それは、沈黙し孤立した達成のなかにある、危ういホメオスタシス(恒常性)的統御を逸脱する様式である。〔・・・〕


◼️性交の怒濤による意味のゼロ度

電子ネットワークによるポルノグラフィの世界的蔓延は、精神分析において、疑いもなく歴然とした影響を生み出している。今世紀の始まりにおけるポルノグラフィの遍在は、何を表しているのか? どう言ったらいいのだろう? そう、それは「性関係はない」以外の何ものでもない。これが我々の世紀に谺していることだ。そしてある意味で、ひっきりなしの、絶え間なく続くあのスペクタクルの聖歌隊によって、詠唱されていることだ。というのは、性関係の不在が、おそらくこの熱中に帰されうるから。我々は既に、この熱中の帰結を、より若い世代の道徳観のなかの足跡を辿りつつある。あの世代の性的振る舞いスタイルにおける習俗のなかに、である。すなわち、幻滅・残忍・陳腐…。


ポルノグラフィにおける性交の怒濤は、意味のゼロ度に到っている[La furie copulatoire atteint dans la pornographie un zéro de sens]……(J.-A. MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)




さらにこの2年前には、家父長制の復権が必要だと捉えうることまで言っている。



父の名、この鍵となる機能[Nom-du-Père, cette fonction clé]は、ラカン自身によってディスカウントされた。彼の教えの進路においてデフレーションがあり、父の名は最後にはサントーム以外の何ものでもなくなる。つまり穴の補填である[finissant par faire du Nom-du-Père rien d'autre qu'un sinthome, soit une suppléance au trou]。…父の名の症状によって穴埋めされる穴は、人間における性関係の不在の穴である[que ce trou comblé par le symptôme Nom-du-Père renvoie à l'impossible du rapport sexuel dans l'espèce humaine]。


父の名の失墜[Le déclin du Nom du Père]は、臨床において予期されなかった遠近法を導入する。ラカンの表現「人はみな狂っている。人はみな妄想する[Tout le monde est fou, c'est à dire, délirant] 」はジョークではない。人はみなセクシャリティについてどうすべきかの知の欠如に苦しみ、それぞれの仕方で性的妄想を抱くのである。〔・・・〕


私は言わなければならない。おそらくここにいるマジョリティの見解ではないだろうにも拘らず。私は考えている、カトリック教会のやり方を賞賛すべきだと。現在でさえカトリック教会は現実界の自然な秩序を守るために闘っている。生殖、セクシャリティ、家族等。もちろんそれらは時代錯誤的要素である。しかし彼らは太古の言説の現前、持続、堅固さである。あなたがたは言いうる、失われた大義として讃嘆すべき言説だと。[Je dois dire, même si ça n'est peut-être pas l'avis de tous ici, que je trouve remarquable la façon dont l'église catholique, encore aujourd'hui, lutte pour protéger le réel, son ordre naturel, pour les questions de la reproduction, de la sexualité ou de la famille. Ce sont des éléments anachroniques qui témoignent de la durée et de la solidité de ce discours ancien.Voilà un discours admirable comme cause perdue]…


失われた大義? だがラカンは言った、教会の大義はおそらく凱旋を告げると[Cause perdue ? Lacan disait cependant que la cause de l'église annonçait peut-être un triomphe]. (ラカン「カトリックの言説によって先導される宗教の凱旋 Le triomphe de la religion précédé de Discours aux catholiques」octobre 1974)。


なぜか? 自然から解放された現実界は、あまりにも悪く、ますます耐え難くなっているから。取り戻し得ないとしても失われた秩序へのノスタルジーは、イリュージョンの力をもつ。[Pourquoi ? Parce que le réel, dégagé de la nature, est pire et devient de plus en plus insupportable. Nostalgie pour un ordre perdu impossible à retrouver qui a la vigueur d'une illusion. ](J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)



柴田英里さんは聡明な方だが、ツイートをいくらか眺める限りでは、こういった観点が欠けているように見える。


こう言ってもいい、フェミニズムと性的自由は、21世紀の隠された「家父長制」なのではないか、この問いが欠けているように見える。ーー《家父長制とファルス中心主義は、原初の全能的家母制の青白い反影にすぎない。the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system 》(PAUL VERHAEGHE, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)


これは、米国の社会学的フェミニストのイブリン・リードも、彼女の代表作『女性の進化 Woman's Evolution』(1975年)で見出したことではなかったか。



原理の女性化がある。両性にとって女がいる。過去は両性にとってファルスがあった[il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.](エリック・ロラン Éric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)


1968年に学園紛争前後以降、父の失墜が顕著になり、21世紀にはそれがいっそう明らかになっている。そのとき露われるのは、母なる女である、ーー《(原初には)母なる女の支配がある[une dominance de la femme en tant que mère]》(ラカン, S17, 11 Février 1970)


これは個人史だけでなく歴史的にも原初に母なる神があるのは疑いがたい。


歴史的発達の場で、おそらく偉大な母なる神が、男性の神々の出現以前に現れる。〔・・・〕もっともほとんど疑いなく、この暗黒の時代に、母なる神は、男性諸神にとって変わられた。Stelle dieser Entwicklung treten große Muttergottheiten auf, wahrscheinlich noch vor den männlichen Göttern, […] Es ist wenig zweifelhaft, daß sich in jenen dunkeln Zeiten die Ablösung der Muttergottheiten durch männliche Götter (フロイト『モーセと一神教』3.1.4, 1939年)

一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](ラカン, S23, 16 Mars 1976)




……………


なおジャック=アラン・ミレールの言っている「カトリック的大義」とは、実際は、支配の論理・抑圧の論理に陥りがちな父の名あるいはファルスという「脚立」ではなく、女性性原理の特性、距離のない水平的狂宴(オルギア)から、いくらの距離を取る垂直的小さな梯子「脚立」の構築ということである。





(ラカンの)脚立は梯子ではない。梯子より小さい。しかし踏み段がある[L'escabeau n'est pas l'échelle – c'est plus petit qu'une échelle – , mais il y a des marches].〔・・・〕脚立…それはフロイトの昇華の生き生きとした翻訳である [L'escabeau, …Cela traduit d'une façon imagée la sublimation freudienne](J.-A.  MILLER, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)



この脚立はほぼ次の内容に相当する。


人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)


権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。Authority implies an obedience in which men retain their freedom(ハンナ・アーレント『権威とは何か』1954年)

個を越えた良性の権威へのつながりの感覚(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)



中井久夫はこの「良性の権威」をハンガリーの天才神話学者カール・ケレーニイ(Karl Kerenyi)に依拠しつつ、「父なるレリギオ」とも表現している。


母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年『時のしずく』所収、摘要)

ケレーニーはアイドースをローマのレリギオ(religio 慎しみ)とつながる古代ギリシアの最重要な宗教的感性としている。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)