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2021年11月12日金曜日

アホイズム装置

 


大切なのは、敵の敵は味方ではないということだよ。たとえば、フェミニズムの敵アンチフェミはまったく味方ではない。とくに彼らの一部は、出生率の回復などにかこつけて女性の教育の制限などということをマガオで言い始めている。これこそ前回記した「支配的・抑圧的な家父長制」の復権を目指す、厚顔無恥な、まったく繊細さが欠如した破廉恥漢たちだ。


私は、ツイッターのクラスタ村でのフェミを批判することもあれば、アンチフェミも強く批判する。


思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム 」2006年)


重要なのはパララックスだ。キャッチャーさをもった短いツイートが拡散されるツイッター装置ではこれがまったく機能しない。あれは繊細さの欠如を育む装置、ファシスト装置だ。


重要なのは、〔・・・〕マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


ーー《柄谷の画期的成功は、…パララックスな読みかたをマルクスに適用したこと、マルクスその人をカント主義者として読んだことにある。》(ジジェク『パララックスヴュー』2006年)


以前に私は一般的人間理解を単に私の悟性 Verstand の立場から考察した。今私は自分を自分のでない外的な理性 äußeren Vernunft の位置において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点 Gesichtspunkte anderer から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差 starke Parallaxen (パララックス)を生じはするが、それは光学的欺瞞 optischen Betrug を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢Träume eines Geistersehers』1766年)



クラスタ内にとどまって互いに湿った瞳を交わし合い頷き合っている振舞いは、視差=パララックスを必ず殺す。そして人はヒトラーの罠に嵌る。





何はともあれ、短く書こうとするとアフォリズムになりやすい。ここでのアフォリズムは箴言ではない、阿呆イズムだ。気のきいたことばは疑わしい。


ツイッターをやめろとは言わない。でも、アホイズムに陥らないよう、使い方を十分に注意することだな。


ツイートの別な使い方。「ボット」のように、自由間接話法の、だれとも知れない声の仮の置き場所として使えないか(高橋悠治「壁の向うのざわめき」)