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2021年11月13日土曜日

ああ、Tristis post Coitum!

 

女を抑圧したらダメだよ、父なるレリギオ、つまり慎みは大事だけれどさ。

ティレシアスによれば、女性には「性的自由」を男の九割ほど慎んでもらって男女平等になるようだけどね。

性交の喜びを10とすれば、男と女との快楽比は19である。(ティレシアスの神話)


これじゃいくらなんでも、というなら、

モンテーニュの10対25というのがあるね

六割ほど慎んでいただければ男女対等だ。


女性たちは、世に行われている生活上の規則を拒んだって、少しも悪くはない。それは男どもが彼女たちに相談なしに作り上げたものであるから。彼女たちと我々との間には自ずと陰謀や喧嘩がある。我々と彼女たちとの最も親密な抱擁すら、なお雨風にみちみちている。しかるに、ウェルギリウスの説によると、我々は女性たちを不当に取扱っている。我々は、愛の営みにおいて、女の方が男よりもはるかに能力があり熱烈であることを知っているのに[plus ardentes et plus sensibles que nous aux effets de l'amour]。〔・・・〕


それにまた、この道の達者として有名なローマのある皇帝〔プロクルス〕およびある皇后〔メッサリナ〕が、それぞれの時代にこれに関して与えた証拠も聞いているのだ(この皇帝は一晩のうちに、そのとりことなったサルマティアの処女十人の蕾を散らした。ところが皇后の方は、実に一晩に、欲望と嗜好のおもむくままに、相手をかえつつ二十五回も行った)。〔・・・〕


以上のことを信じまた講釈しながら、われわれ男どもは、節制を婦人たちだけが負うべき務めとして強要する。しかも極刑をふりかざして!(モンテーニュ『エセー』第3部40-41節)



何はともあれ、男にはオチンチンがヘナっとなるからな、

最近はカーマスートラ剤があるにせよさ。

女には到底歯が立たないよ。



日常経験において、男性器は輝かしいポジション、つまり伝統的図像学における勃起したファルスの表象を見出すことは稀である。消耗が男性のセクシャリティの日常の役柄だ。オーガズム、つまり期待された享楽に至るやいなや、勃起萎縮が起こる[survient la détumescence de l'organe]。他方、女性の主体はどんなインポテンツにも遭遇せず、男性のように性交において去勢をこうむる器官に翻弄されずに、享楽を経験する。フロイトの女が去勢されているなら、ラカンの女は何も欠けていない。《女の壺は空虚だろうか、それとも満湖[plein]だろうか。…あれは何も欠けていないよ[Le vase féminin est-il vide, est-il plein ? (…) Il n'y manque rien ]》(20 Mars 1963)。ーーラカンは不安セミネールⅩでこう言った。〔・・・〕


ラカンは明瞭化したのである、ファルスはたんにイマージュ、力のイリュージョン的イマージュ[l'image illusoire de la puissance]に過ぎないと。女性の主体は男が喜ぶようにこの囮の虜[captif de ce leurre]になりうるかもしれない。だが実際は、欲望と享楽に関して、男性の主体のほうが弱い性なのである。《女は享楽の領域において優越している[La femme s'avère comme supérieure dans le domaine de la jouissance ]》(S10, 20 Mars 1963). (ジャン=ルイ・ゴーJean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019)



このあたりの話はジャック=アラン・ミレール版を何度か引用してきたけどさ


男ってのは女が真に性的自由になったら逃げ出すもんさ


何が起こるだろう、ごく標準的の男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナデンタータの神話の言い換えである。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  1998)


宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナデンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。〔・・・〕

社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。〔・・・〕


自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリア Camille Paglia『性のペルソナ Sexual Personae』1990年)




ああ、Tristis post Coitum!



原始的淋しさは存在という情念から来る。

Tristis post Coitumの類で原始的だ。

孤独、絶望、は根本的なパンセだ。

生命の根本的情念である。

またこれは美の情念でもある。


ーー西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』


性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier(ラテン語格言、ギリシャ人医師兼哲学者Galen




イボタの繁みから女のせせら笑いが

きこえてくる。


ーー西脇順三郎「六月の朝」







わが器十分に長く太からざりしとせば彼女たちがものうげにそれを眺めたるも故なきにあらず。Si non longa satis, si non benè mentula crassa : Nimirum sapiunt vidéntque parvam Matronæ quoque mentulam illibenter.(プリアペアーーモンテーニュ『エッセイ』第3部より)