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2021年11月13日土曜日

「女性の自由」の帰結

 


前回は女性の「性的自由」に絞って記述したが、実はもっと大切なことがある。「性的」を外した「女性の自由」である。


全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957)

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母の影はすべての女に落ちている。したがってすべての女は母の力をを備えている、母なる全能の力さえも[The shadow of the mother falls on every woman so that she shares in the power, and even in the omnipotence, of the mother. ]


これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」What is it, son?


この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで[from sexism to misogyny ]。(Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)


女性が真に自由になると、世の中はミソジニーで溢れ返ってしまうということはないだろうか。いくらか自由を慎んでいただくことが世のため人のためではないだろうか。


母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年『時のしずく』所収、摘要)


もっともこういったことを言っても、もはや遅いのかもしれない。世界は父なるファルスのタガが既に外れてしまっているのだから。


原理の女性化がある。両性にとって女がいる。過去は両性にとってファルスがあった[il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.](エリック・ロラン Éric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)





もともと世界の原支配者は母なる女であり、父なる男ではない。


母の影は女の上に落ちている[l'ombre de la mère tombe là sur la femme.]〔・・・〕全能の力、われわれはその起源を父の側に探し求めてはならない。それは母の側にある。La toute-puissance, il ne faut pas en chercher l'origine du côté du père, mais du côté de la mère,(J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016)


父とは原初にある母なるシニフィアン(母の表象)の代理人にすぎない。


エディプスコンプレックスにおける父の機能は、他のシニフィアンの代理シニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン、母なるシニフィアンである。La fonction du père dans le complexe d'Œdipe, est d'être  un signifiant substitué au signifiant, c'est-à-dire au premier signifiant introduit dans la symbolisation,  le signifiant maternel.  (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)


この母の表象をラカン派ではS(Ⱥ) と書く。穴Ⱥの表象(トラウマの表象)である。


シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される[c'est sigma, le sigma du sinthome, …que écrire grand S de grand A barré comme sigma] (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens](J.-A.MILLER,, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

モノは母である[das Ding, qui est la mère](ラカン, S7, 16 Décembre 1959)


このS(Ⱥ)が現実界のシニフィアン(エスの境界表象)、かつわれわれを常に支配している超自我のシニフィアンである。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976

S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96


母なる超自我の代理人である女たちが、真に自由になってしまいつつあるのが、この21世紀ではなかろうか。


母なる超自我[surmoi maternel]・太古の超自我[surmoi archaïque]、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我 surmoi primordial]の効果に結びついているものである。最初の他者の水準において、ーーそれが最初の要求[demandes]の単純な支えである限りであるがーー私は言おう、幼児の欲求[besoin]の最初の漠然とした分節化、その水準における最初の欲求不満[frustrations]において、母なる超自我に属する全ては、この母への依存[dépendance]の周りに分節化される。  (Lacan, S5, 02 Juillet 1958


この母なる超自我は、われわれヒト族にいったい何をしたのか。


(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (Lacan , S17, 11 Février 1970)


そう、母なる女は享楽を与えたのである。言い換えれば、あの女は穴=トラウマを与えた。


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974




かつては父の名でこの穴を塞いでいた。


父の名という穴埋め[bouchon qu'est un Nom du Père]  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)

ラカンがS (Ⱥ)を構築した時、父の名は穴埋め、このȺの穴埋めとして現れる。Au moment où Lacan construit S(Ⱥ), le Nom-du-Père va apparaître comme un bouchon, le bouchon de ce Ⱥ.     (J.- A. Miller, L'AUTRE DANS L'AUTRE, 2017)


だがこの父は学園紛争前後を契機に蒸発しつつある。


父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)


これが極まりつつあるのが、21世紀の女性性原理の時代である。

この女性性原理の別名は女なる神、女なる超自我の原理である。


一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](ラカン, S23, 16 Mars 1976)

一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.](ラカン, S17, 18 Février 1970)


フェミニストの方々はどうか無慈悲に振る舞わずに、いくらかの父の復権を思案していただきたいものである。


フロイトによる超自我の用語、私はこの超自我を「猥褻かつ無慈悲な形象」と呼ぶ。par FREUD sous le terme de Surmoi,  …à ce que j'ai appelé « cette figure obscène et féroce »   (ラカン, S7, 18 Novembre 1959)



お願いしたいのは、抑圧の審級にある父の名では決してない。そうではなく、つつしみの審級にある父なるレリギオである。





なにはともあれ、21世紀の「知識人」は、フェミニストに限らず、ドゥルーズ &ガタリの犯した過ちにいまだ支配されている。


パラノイアのセクター化に対し、分裂病の断片化を対立しうる。私は言おう、ドゥルーズ とガタリの書(「アンチオイディプス」)における最も説得力のある部分は、パラノイアの領土化と分裂病の根源的脱領土化を対比させたことだ。ドゥルーズ とガタリがなした唯一の欠陥は、それを文学化し、分裂病的断片化は自由の世界だと想像したことである。

A cette sectorisation paranoïaque, on peut opposer le morcellement schizophrénique. Je dirai que c'est la partie la plus convaincante du livre de Deleuze et Guattari que d'opposer ainsi la territorialisation paranoïaque à la foncière déterritorialisation schizophrénique. Le seul tort qu'ils ont, c'est d'en faire de la littérature et de s'imaginer que le morcellement schizophrénique soit le monde de la liberté.    (J.-A. Miller, LA CLINIQUE LACANIENNE, 28 AVRIL 1982)


オイディプスの打倒、つまり家父長制を打倒した先に自由などある筈がないのである。あるのは猥褻で無慈悲なオルギア的母なる超自我である。


家父長制とファルス中心主義は、原初の全能的家母制の青白い反影にすぎない。the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system (PAUL VERHAEGHE, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)


ーー《私は病気だ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているから。j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde》(Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)



ドゥルーズの最大の問題は、フロイトの超自我と自我理想(ラカンの父の名)を等置してしまったことである(参照)。


心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく仮定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


この観点において、私の知る限りで、日本のドゥルーズ研究者はいまだ全滅である。