ニーチェの力への意志とは欲動のことであり、それ以外はすべて欲動に対する防衛だと言っている。 |
力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: 〔・・・〕 すべての欲動力[alle treibende Kraft]は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt... (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888) |
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志を見てとり、彼らがこの欲動の飼い馴らされていない暴力[unbändigen Gewalt dieses Triebs]に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための防衛手段から生じたものであることを見てとった。 Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第3節『偶然の黄昏』所収、1888) |
このニーチェは次のラカンと等価である。 |
欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である[le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.]( Lacan, E825、1960) |
欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.](J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011) |
つまり「欲望は欲動に対する防衛」となる。 ラカンにおいて欲望は言語に結びついたものであって、われわれの言説はすべて欲動に対する防衛と言ってもよい。 |
欲望は言語に結びついている[le désir tient au langage] (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011) |
我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である[tous nos discours sont une défense contre le réel] (Anna Aromí, Xavier Esqué, XI Congreso, Barcelona 2-6 abril 2018) |
防衛の別名は穴埋めである。 |
我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する[tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel.]〔・・・〕現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
欲動の現実界がある 。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou.](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
もしお好きなら、われわれのすべてはエスに対する防衛と言ってもよい。 |
エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章1939年) |
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。 ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが? - nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht! - hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年) |
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ほかにも例えばニーチェは次のように書いている。 |
記憶に残るものは灼きつけられたものである。傷つけることを止めないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である[»Man brennt etwas ein, damit es im Gedächtnis bleibt: nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis« - das ist ein Hauptsatz aus der allerältesten (leider auch allerlängsten) Psychologie auf Erden.](ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年) |
これも基本的には次のラカンと同じ。 |
現実界は書かれることを止めない[le Réel ne cesse pas de s'écrire ](Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme] (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
「トラウマは書かれることを止めない」とは、「傷は書かれることを止めない」、「傷は無意識のエスの反復強迫をする」である。 |
止めないもの[qui ne cesse pas]は、無意識のエスの反復強迫である[la compulsion de répétition du ça inconscient. ]。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas - 26/2/97、摘要) |
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さらに、こうもある。 |
人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている[Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.](ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年) |
これは自己固有の出来事[sein typisches Erlebniss]をどう捉えるかにもよるが(後述)、これまたつぎのラカンと相同的なものとしてあつかいうる。 |
現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる[le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place » ](Lacan, S16, 05 Mars 1969 ) |
この現実界はフロイトの固着である。 |
フロイトが固着点と呼んだものは、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える[ce qu'il appelle un point de fixation. …qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
そしてフロイトの固着とは「トラウマ=身体の出来事」の固着である。おそらく先ほどのニーチェの自己固有の出来事[sein typisches Erlebniss]をこの身体の出来事 [Erlebnisse am eigenen Körper]と等置しうる。 |
トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕 このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。 これらは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]。 (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
つまりニーチェの自己固有の出来事[sein typisches Erlebniss]は不変の個性刻印 [unwandelbare Charakterzüge ]であり、これがニーチェの言うように常に回帰する。永遠回帰する。 |
同じ出来事の反復[Wiederholung der nämlichen Erlebnisse]の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年) |
要するにフロイト反復強迫(無意識のエスの反復強迫)とは、ニーチェの永遠回帰であり、これが死の欲動である。
欲動蠢動は「自動反復」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして(原)抑圧において固着する要素は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである。 Triebregung […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要) |
内部で排除されたものは、外部から回帰する daß das innerlich Aufgehobene von außen wiederkehrt. (フロイト『症例シュレーバー 』第3章、1911年) |
われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。 Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) |
このようにフロイトラカンの多くのことがニーチェにある。『ツァラトゥストラ』で頻出する"Lust"自体ーー通常「悦」と訳されてきたーー、フロイトの欲動、ラカンの享楽である、《欲動〔・・・〕、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。Triebe […] "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"》(ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)
もちろん臨床治療に関してはニーチェにはないが、原理あるいは人間の原動因に関しては、ーーここでは挑発的にこう言っておこう、「すべてはニーチェにある」と。
ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.(フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung、1908年 ) |
ニーチェは、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。Nietzsche, […] dessen Ahnungen und Einsichten sich oft in der erstaunlichsten Weise mit den mühsamen Ergebnissen der Psychoanalyse decken (フロイト『自己を語る Selbstdarstellung』1925年) |
ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我と呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」と。Ich meine G. Groddeck, der immer wieder betont, daß das, was wir unser Ich heißen, sich im Leben wesentlich passiv verhält, daß wir nach seinem Ausdruck » gelebt« werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächten5. |
この力をグロデックに用語に従ってエスと名付けることを提案する。Ich schlage vor,[...] nach Groddecks Gebrauch das Es. |
グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがとてもしばしば使われている。 Groddeck selbst ist wohl dem Beispiel Nietzsches gefolgt, bei dem dieser grammatikalische Ausdruck für das Unpersönliche und sozusagen Naturnotwendige in unserem Wesen durchaus gebräuchlich ist(フロイト『自我とエス』第2章、1923年) |
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※付記
死の欲動はラカンの享楽であり、基本的には反復強迫であるとは言え、究極的には死の彼岸にある永遠の生への回帰が死の欲動である。 |
死の彼岸にある永遠の生[Das ewige Leben über Tod ] |
ディオニュソス的密儀においてのみ、古代ギリシア人の本能の全根源的事実は表現された。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生であり、生の永遠回帰である[Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens]。生殖において約束され清められた未来である[die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht]。死の彼岸の生[Leben über Tod ]、流転の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である。 spricht sich erst in den dionysischen Mysterien der ganze Untergrund des hellenischen Instinkts aus. Denn was verbürgte sich der Hellene mit diesen Mysterien? Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens, die Zukunft in der Zeugung verheißen und geweiht, das triumphirende Jasagen zum Leben über Tod und Wandel hinaus, (ニーチェ「力への意志」遺稿、1887- 1888) |
完全になったもの、熟したものは、みなーー死を望む[Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」19章第9節、1885年) |
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生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod 〔・・・〕有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。der Organismus nur auf seine Weise sterben will; auch diese Lebenswächter sind ursprünglich Trabanten des Todes gewesen. (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
エスの力[Macht des Es]は、個々の有機体的生の真の意図を表す。それは生得的欲求の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。〔・・・〕エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は、心的な生の上に課される身体的要求を表す。 Die Macht des Es drückt die eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesens aus. Sie besteht darin, seine mitgebrachten Bedürfnisse zu befriedigen. Eine Absicht, sich am Leben zu erhalten und sich durch die Angst vor Gefahren zu schützen, kann dem Es nicht zugeschrieben werden. Dies ist die Aufgabe des Ichs […] Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe. Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
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死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qu'on appelle la jouissance. ](Lacan, S17, 26 Novembre 1969) |
死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である[La pulsion de mort c'est le Réel …c'est la mort, dont c'est le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
これ以外にフロイトラカンはニーチェの「永遠の生」に相当する「不死の生」を語っている(参照)。