(多くの男は)愛する場では欲望しない。欲望する場では愛しえない[Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben.](フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912年) |
フロイトの目くらめく形式化がある、《男たちは愛する場では欲望しない。そして欲望する場では愛しえない》。われわれは言うことができる、これが愛の裂け目の真の定式だと。cette formulation fulgurante de Freud : « Là où ils aiment, ils ne désirent pas, et là où ils désirent, ils ne peuvent aimer. » On peut dire que c'est là vraiment qu'est donné la formule du clivage de l'amour (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 22 MARS 1989 ) |
《愛されると同時に欲望される[être désirée en même temps qu'aimée]》(Lacan, E694, 1958)、これが女たちの願いである。〔・・・〕 フロイトが示した女性の対象選択は愛と欲望の一致であり、男性の対象選択は、愛と欲望の分離である。ラカンはこれを「ファルスの意味作用」で取り上げた。 だが「愛される」というフレーズを強調しよう。「愛される」とは女性の愛の被愛妄想的多様性を示している。愛されるために愛することが、おそらく女たちの座右の銘である(ここで思い出そう、フロイトが見事に注釈したことを。捨てられることに対する女性の感受性の強さを)(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, On Women and the Phallus, 2010) |
ーー《女性的マゾヒズムの秘密は、被愛妄想である[Le secret du masochisme féminin est l'érotomanie]》(J.-A. Miller, L'os d'une cure, Navarin, 2018) ……………… |
フロイトの三つの「性愛の心理学への寄与」論文、すなわち『男性における対象選択のある特殊な型について 』(1910)、『性愛生活が誰からも貶められることについて』(1912)、『処女性のタブー 』(1918)。 この三つは、私の見解では、真のラカニアンのテキストである。ラカンは自ら、ラカニアンではなくフロイディアンだと言っている。そしてフロイトは自らをラカニアンではないとは決して言っていない・・・。私は心から信じている。この三つのテキストには真にラカニアン的フロイトがいる、と。この諸テキストは、ラカンのテキストの再読・再考を促してくれる。…それは、「ひとりのラカン」を超えてゆくためにフロイトを読むことを意味する、「もうひとりのラカン」の助けを以て。〔・・・〕 |
「性愛の心理学への寄与」論文の重要性は何か? フロイトにとっての問いは、男と女は互いにいかに関係するのかという、皆が実際に熟考している問いである。その意味は、男女の性関係を考える試み、その困難その袋小路に思いをめぐらす試みである。(J.-A. MILLER, A New Kind of Love, lacan.com, 2010) |
ここではフロイトの主に次の二文に絞って見てみることにする。 |
…この類型の愛する男たちにおいて、すべての観察者を最もギョッとさせるのは、彼らは愛する対象としての女を「救い出そう=レスキュー」rettenと駆り立てられていることである。男は確信している、女が彼を必要としていると。彼なしでは女はすべての道徳的コントロールを失い、痛ましい水準に堕落してしまうと。Am überraschendsten wirkt auf den Beobachter die bei den Liebenden dieses Typus sich äußernde Tendenz, die Geliebte zu » retten«. Der Mann ist überzeugt, daß die Geliebte seiner bedarf, daß sie ohne ihn jeden sittlichen Halt verlieren und rasch auf ein bedauernswertes Niveau herabsinken würde.(フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について 』1910年) |
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もしわれわれが心的インポテンツ[psychischen Impotenz]概念の拡大ではなく、症候学に注意を払うなら、現在の文明化された世界の男たちの愛の習性[Liebesverhalten des Mannes]は、全体的にみて心的インポテンツの刻印が負わされている。教育ある人々のあいだでは、情愛と官能 [die zärtliche und die sinnliche Strömung ]の流れが合流しているケースはごくわずかである。 |
男はほとんど常に、女性への尊敬[Respekt vor dem Weibe]を通しての性行動[sexuellen Betätigung] に制限を受けていると感じる。そして貶められた性的対象[erniedrigtes Sexualobjekt]に対してのみ十全なポテンツを発揮する。(フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912年) |
以下ポール・バーハウ 1998の注釈である。 |
愛と欲動のあいだの永遠の分裂は、フロイトにとって大きな問いであり、二つの論文、『男性における対象選択のある特殊な型について 』と『性愛生活が誰からも貶められることについて』はそれに捧げられている。両方とも男の視野からの問題を観察している。〔・・・〕 |
男たちにおいて、マドンナと娼婦のあいだのよく知られた対比がある。〔・・・〕 妻を尊敬する超因習的な夫たちがいる。彼らはしばしばあまりに妻を尊敬しており、心理学的インポテンツになる。尊敬の仮装の下に、禁じられた母の影が愛された妻を覆っている。したがってどんな性的接近も不可能になる。しかしこの男のインポテンツは娼婦の下に行ったらまったく消えてなくなる、尊敬が消滅するのをともなって。 |
振り子は他のほうに振れるのである。というのは妻-母が褒め讃えられるように、娼婦としての女は貶められるから。このコンテキストにおいて、われわれは典型的な男の幻想に出会う。すべての娼婦によく知られているメイルファンタジー[male fantasy]だ。つまり女のレスキューファンタジーである。娼婦の多数の顧客は、廃墟から女を助け出したい。男たちは愛の対象の地位に彼女を回復させたい。言い換えれば、男たちは女が妻-母になることを望む。尊敬の対象に戻したいのである。こうして円環が完成する。 |
興味深いことに、女の救済あるいは女の貶めのどちらの場合も、権力[the power]は男にあることだ。これ自体は、原母子関係のリライトである。男のポジションは受動性から能動性へ移行する。(Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness, 1998、摘要) |
最後の「原母子関係の書き直し=受動性から能動性へ」はいくらわかりにくいかもしれない。以下、フロイトラカンから引用してより明瞭化しよう。 |
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◼️受動性=不快=享楽 |
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母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質のものである[Die ersten sexuellen und sexuell mitbetonten Erlebnisse des Kindes bei der Mutter sind natürlich passiver Natur. ](フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年) |
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原初の不快の経験は受動性である[primäres Unlusterlebnis …passiver Natur] (フロイト、フリース宛書簡 Briefe an Wilhelm Fließ, Dezember 1895) |
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不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970) |
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すなわち、「母なる女は受動性=不快=享楽を与える」となる。 |
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(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。…une dominance de la femme en tant que mère, et : - mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme. La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (ラカン, S17, 11 Février 1970) |
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◼️不快=不安=トラウマ=享楽 |
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不快(不安)[ Unlust-(Angst).](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年) |
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不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
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われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. ](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009) |
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※享楽=トラウマについて、より詳しくは「享楽はトラウマである」を参照 |
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◼️すべての症状は、不安=トラウマ=享楽に対する防衛である |
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すべての症状形成は、不安を避けるためのものである[alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen](フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年) |
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結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年) |
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ーー《我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である[tous nos discours sont une défense contre le réel]》 (Anna Aromí, Xavier Esqué, XI Congreso, Barcelona 2-6 abril 2018) ◼️受動性から能動性への移行 |
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トラウマを受動的に体験した自我[Das Ich, welches das Trauma passiv erlebt]は、その状況の成行きを自主的に左右するという希望をもって、能動的にこの反応の再生を、よわめられた形ではあるが繰り返す。 子供はすべての苦痛な印象にたいして、それを遊びで再生しながら、同様にふるまうことをわれわれは知っている。このさい子供は、受動性から能動性へ移行する[von der Passivität zur Aktivität überzugehen]ことによって、彼の生の出来事を心的に克服しようとするのである。(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年) |
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小児の遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い[passives Erlebnis durch eine aktive Handlung zu ergänzen] 、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。 医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように、自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置を反復する[die gewalttätige Prozedur an einem kleinen Geschwisterchen wiederholen]。受動性への反抗と能動的役割の選択 [Eine Auflehnung gegen die Passivität und eine Bevorzugung der aktiven Rolle]は疑いない。(フロイト『女性の性愛』第3章、1931年) |
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何よりもまず、「母への受動性から女への能動性」、これが男性の幻想の根にあるものであるが、バーハウの注釈にあったようにそこからまた母へ回帰する(女性の幻想はこれよりも複雑でありここでは触れないでおく)。
幻想による穴埋めは十分にはなされない。これがダナイデスの樽の意味である、ーー《享楽はダナイデスの樽である[la jouissance, c'est « le tonneau des Danaïdes » ]》(Lacan, S17, 11 Février 1970)。別の言い方をすれば、母なる原穴は埋まらない、ーー《母は「原リアルの名」であり、原穴の名である。Mère, …c’est le nom du premier réel, …c’est le nom du premier trou》(Colette Soler, Humanisation ? , 2014)。したがって常に母なるトラウマの回帰がある。これが先ほど引用したフロイトの《結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない》の意味である。 |
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なお受動性とはマゾヒズムのことである。 |
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マゾヒズムはその根において、女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年) |
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享楽はその基盤においてマゾヒズム的である[La jouissance est masochiste dans son fond](ラカン、S16, 15 Janvier 1969) |
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原幼児期には、人はみなマゾヒストなのである。
…………… ※付記 |
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フロイトの観点では、享楽と不安との関係は、ラカンが同調したように、不安の背後にあるものである。欲動は、満足を求めるという限りで、絶え間なき執拗な享楽の意志[volonté de jouissance insistant sans trêve]としてある。 欲動要求[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快がある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse. ]。これをラカンは一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( S17, 1970)ーー、すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose]。(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004) |
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976) |
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モノは母である[das Ding, qui est la mère](ラカン, S7, 16 Décembre 1959) |
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現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる[le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place » ] (Lacan, S16, 05 Mars 1969 ) |