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2021年11月16日火曜日

欲動の昇華と子宮理論文献

 

以前にも似たような内容を引用列挙したが、ここでは、ある意図があって、いくらかまとめて掲げる。

プラトンは考えた、知への愛と哲学は昇華された性欲動だと[Platon meint, die Liebe zur Erkenntniß und Philosophie sei ein sublimirter Geschlechtstrieb](ニーチェ断章 (KSA 9, 486) 1880–1882)

性欲動の発展としての同情と人類愛。復讐欲動の発展としての正義[Mitleid und Liebe zur Menschheit als Entwicklung des Geschlechtstriebes. Gerechtigkeit als Entwicklung des Rachetriebes. ](ニーチェ「力への意志」遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )

芸術や美へのあこがれは、性欲動の歓喜の間接的なあこがれである[Das Verlangen nach Kunst und Schönheit ist ein indirektes Verlangen nach den Entzückungen des Geschlechtstriebes   ](ニーチェ「力への意志」遺稿、 1882 - Frühjahr 1887)



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◼️性欲動=エスのリビドーの昇華(脱性化)

性的欲動力の昇華[Sublimierung sexueller Triebkräfte](フロイト『性理論三篇』1905年)

エスのリビドーの脱性化あるいは昇華化 [die Libido des Es desexualisiert oder sublimiert ](フロイト『自我とエス』4章、1923年)

エディプスコンプレクスに属するリビドーの動向は部分的に脱性化され昇華される[Die dem Ödipuskomplex zugehörigen libidinösen Strebungen werden zum Teil desexualisiert und sublimiert](フロイト『エディプスコンプレクスの消滅』1924年)


人間の日常生活の観察が示しているのは、たいていの人は性的欲動力を大部分を彼らの職業活動に振り向けることに成功していることである。性的欲動はこの種の貢献を為すのにとくに上手く適合している。というのは、性的欲動は昇華の能力に恵まれているから。つまり手近な目標を、別のもっと高く評価された非性的目標と取り替えうる。

Die Beobachtung des täglichen Lebens der Menschen zeigt uns, daß es den meisten gelingt, ganz ansehnliche Anteile ihrer sexuellen Triebkräfte auf ihre Berufstätigkeit zu leiten. Der Sexualtrieb eignet sich ganz besonders dazu, solche Beiträge abzugeben, da er mit der Fähigkeit der Sublimierung begabt, d, h. im stände ist, sein nächstes Ziel gegen andere, eventuell höher gewertete und nicht sexuelle, Ziele zu vertauschen. (フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』第1章、1910年)


◼️欲動の昇華=欲動の上品化・高級化・家畜化・飼い馴らし

われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること、つまり、欲動の目標をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにする機制がある。…この目的のためには、欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]が役立つ。一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。芸術家が制作ーーすなわち自分の空想の所産の具体化[der Verkörperung seiner Phantasiegebilde]ーーによって手に入れる喜び、研究者が問題を解決し真理を認識するときに感ずる喜びなど、との種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識心理の立場から明らかにするととができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級」 »feiner und höher« なものに思えるという比喩的な説明しかできない。けれどもこの種の満足は、粗野な原初の欲動蠢動[primärer Triebregungen]を堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体[Leiblichkeit]までを突き動かすことがない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)

荒々しい、自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動[wilden, vom Ich ungebändigten Triebregung]と家畜化された欲動[gezähmten Triebes](フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年、摘要)

欲動要求の永続的解決 [dauernde Erledigung eines Triebanspruchs]とは、欲動の飼い馴らし [Bändigung]とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。


しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイ[Die Hexe Metapsychologie]  である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)



◼️欲動の昇華の不可能性ーー束縛を排して休みなく前へと突き進む欲動

人間の今日までの発展は、私には動物の場合とおなじ説明でこと足りるように思われるし、少数の個人においに 完成へのやむことなき衝迫[rastlosen Drang zu weiterer Vervollkommnung ]とみられるものは、当然、人間文化の価値多いものがその上に打ちたてられている欲動抑圧[Triebverdrängung]の結果として理解されるのである。


抑圧された欲動[verdrängte Trieb] は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進むungebändigt immer vorwärts dringt」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)





◼️女性における欲動の昇華能力

我々はまた、女たちは男たちに比べ社会的関心に弱く、欲動昇華の能力が低いと見なしている[Wir sagen auch von den Frauen aus, daß ihre sozialen Interessen schwächer und ihre Fähigkeit zur Triebsublimierung geringer sind als die der Männer. ](フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)

少女たち、情愛への過剰な欲求と同時に性的生[Sexuallebens]の現実的要求への過剰な恐怖をもつ少女にとって、非性的愛の理想[Ideal der asexuellen Liebe]は、抵抗しがた誘いである一方で、情愛の背後にリビドーを隠蔽している[Libido hinter einer Zärtlichkeit…zu verbergen]。(フロイト『性理論三篇』第3章、1905年)


女が事実上、男よりもはるかに厄介なのは、子宮あるいは女性器の側に起こるものの現実をそれを満足させる欲望の弁証法に移行させるためである。Si la femme en effet a beaucoup plus de mal que le garçon, […] à faire entrer cette réalité de ce qui se passe du côté de l'utérus ou du vagin, dans une dialectique du désir qui la satisfasse  (Lacan, S4, 27 Février 1957)



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子宮は動物である。子供を生むことを憧憬する動物である。思春期以後あまりにも長く子供を持たないままだと、子宮は腹を立て苦しんで五体をさまよい,呼吸の動きををとめて酸素吸入を妨害し、最も激しい苦悩とさらにあらゆる種類の病を引き起こす。(プラトン『ティマイオス』)

プラトンによると、神々は、我々にいうことをきかない我儘な器官をもたせた。それはまるで狂暴な動物のように、その激しい欲望の力によってすべてを自分に屈服させようとする。同様に女性たちにも、食いしん坊の、貪欲な動物が宿っている。もし人が適当なときにこれに食べものを与えないと、待ちきれないで暴れ出す。そしてその怒りを彼女たちの五体の隅々まで吹きこみ、血のめぐりを妨げ、呼吸を止め、様々な病をひき起し、いよいよ皆がその渇きあこがれる果実を吸い、それをもって子宮の奥までうるおさなければおさまらない。


Les dieux, dit Platon, nous ont pourvus d'un membre indocile et tyrannique qui, comme un animal furieux, entreprend de tout soumettre à sa domination à cause de la violence de son désir. Il en est de même pour les femmes, qui ont là une sorte d'animal glouton et vorace, qui devient forcené d'impatience si on ne lui donne pas son aliment en temps voulu ; soufflant sa rage dans leurs corps, il obstrue les conduits et gêne la respiration, causant toutes sortes de troubles, jusqu'à ce que, ayant goûté au fruit vers lequel tend la soif commune, il en ait largement arrosé et ensemencé le fond de la matrice.(モンテーニュ『エセー』第3部54節)

アリストテレスは既にヒステリーを次の事実を基盤とした理論として考えた。すなわち、子宮は女の身体の内部に住む小さな動物であり、何か食べ物を与えないとひどく擾乱すると。Déjà ARISTOTE donnait de l'hystérique une théorie fondée sur le fait que l'utérus était un petit animal qui vivait à l'intérieur du corps de la femme  et qui remuait salement fort quand on ne lui donnait pas de quoi bouffer.   (Lacan, S2, 18 Mai 1955)




後期理論の段階において、ラカンは強調することをやめない。身体の現実界、例えば、欲動の身体的源泉は、われわれ象徴界の主体にとって根源的な異者 étranger であることを。


われわれはその身体に対して親密であるよりはむしろ外密 extimité の関係(外にある親密)をもっている。…事実、無意識と身体の両方とも、われわれの親密な部分でありながら、それにもかかわらず全くの異者であり知られていない。〔・・・〕


偶然にも、ヒステリーの古代エジプト理論は、精神分析の洞察と再接合する或る直観的真理を含んでいる。ヒステリーについての最初の理論は、Kahun で発見された (Papyrus Ebers, 1937) 4000年ほど前のパピルスに記されている。そこには、ヒステリーは子宮の移動によって引き起こされるとの説明がある。子宮は、身体内部にある独立した・自動性をもった器官だと考えられていた。


ヒステリーの治療はこの気まぐれな器官をその正しい場所に固定することが目指されていたので、当時の医師-神官が処方する標準的療法は、論理的に「結婚」に帰着した。


この理論は、プラトン、ヒポクラテス、ガレノス、パラケルルス、等々によって採用され、何世紀ものあいだ権威のあるものだった。なんという奇矯な考え方!ーーだが、たいていの奇妙な理論と同様に、それはある真理の核を含んでいる。


まず、ヒステリーはおおいに性的問題だと考えらてれる。第二にこの理論は、子宮は身体の他の部分に比べ気まぐれで異者のようなものという着想を伴っており、事実上、人間内部の分裂という考え方を示している。つまり我々内部の親密な異者・いまだ知られていない部分としてのフロイトの無意識の発見の先鞭をつけている。


神秘的・想像的な仕方で、この古代エジプト理論は語っているのだ、「自我は自分の家の主人ではない」(フロイト)、「人は自分自身の身体のなかで何が起こっているか知らない」(ラカン)、と。(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS, 2004)




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なお、ラカン派における昇華は剰余享楽であり、享楽の穴の穴埋めである。


昇華の対象。それは厳密に、ラカンによって導入された剰余享楽の価値である[des objets de la sublimation. …: ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir introduit par Lacan.] (J.-A. Miller, L'Autre sans Autre,  May 2013)

ラカンは享楽と剰余享楽[la jouissance du plus-de-jouir]を区別した。穴と穴埋め[le trou et le bouchon]である。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)


装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


ーー《欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである。pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance》.(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


ラカンの享楽の穴は享楽の喪失と等価である(参照)。そして穴とはトラウマのことであり、斜線を引かれた享楽として示される。斜線を引かれていない享楽も含めて図示すれば次のようになる。




ようするに原享楽[la jouissance primordial]は死[Mort]である。これを前提に次の文を読もう。


剰余享楽としての享楽は、穴埋めだが、享楽の喪失を厳密に穴埋めすることは決してない[la jouissance comme plus-de-jouir, c'est-à-dire comme ce qui comble, mais ne comble jamais exactement la déperdition de jouissance](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


このジャック=アラン・ミレールは欲動の昇華(享楽の昇華)の不可能性を言っていることになる。死の欲動は居残るのである。人によって居残り方の多寡はあれ。


ラカンは昇華としての穴埋めについて例えばこう言った。


愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou.](Lacan, S21, 18 Décembre 1973)

父の名という穴埋め[bouchon qu'est un Nom du Père]  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)


どちらも享楽の穴の穴埋めということである。

さらに父の名は事実上、大他者であり言語である。


大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)


そして、


欲望は大他者に由来する[le désir vient de l'Autre](ラカン, E853, 1964年)

欲望は法に従属している[(le) désir …soit soumis à la Loi ](Lacan, E852, 1964年)


法とは言語の法であり、したがって《欲望は言語に結びついている[le désir tient au langage]》  (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


結局、父の名による穴埋めとは欲望による穴埋めである。


ラカンにおいて欲望(=大他者への愛)は象徴界にあり、愛(=自己への愛)は想像界にある。


愛と欲望…これはナルシシズム的愛とアタッチメント(愛着)的愛のあいだのフロイトの区別である。l'amour et le désir …la distinction freudienne entre l'amour narcissique et l'amour anaclitique〔・・・〕

ナルシシズム的愛は自己への愛にかかわる。アタッチメント的愛は大他者への愛である。ナルシシズム的愛は想像界の軸にあり、アタッチメント的愛は象徴界の軸にある。l'amour narcissique concerne l'amour du même, tandis que l'amour anaclitique concerne l'amour de l'Autre. Si l'amour narcissique se place sur l'axe imaginaire, l'amour anaclitique se place sur l'axe symbolique (J.-A. Miller「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)



つまり享楽の穴の欲望と愛による穴埋めとは、象徴界と想像界による現実界の享楽の穴の穴埋めである。だが穴は十分には埋まらない。これが欲動の昇華の不可能性の意味であり、基本的には男女両性とも同様である。もっとも(心的領野に起因する場合が多い自殺とは異なり身体的な)自傷行為は端的な死の欲動の現れであり、女性の方が格段に多いということはある。



主体の自傷行為は、イマジネールな身体ではなくリビドーの身体による[l'auto mutilation du sujet […] le corps qui n'est pas le corps imaginaire mais le corps libidinal]( J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6   - 16/06/2004)

究極的には死とリビドーは繋がっている[finalement la mort et la libido ont partie liée]. (J.-A. MILLER,   L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99)


ーー《享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である[le nom de jouissance…le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir]》.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)



女性的マゾヒズムの秘密は、被愛妄想である[Le secret du masochisme féminin est l'érotomanie](J.-A. Miller, L'os d'une cure, Navarin, 2018)

ラカンはマゾヒズムにおいて、達成された愛の関係を享楽する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰な固着[un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet]を示している。それは母への固着[fixation sur la mère]であり、自己身体への固着[fixation sur le corps propre]でさえある。自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである[L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même]  (エリック・ロランÉric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)

マゾヒズム用語が意味するのは、何よりもまず死の欲動に苛まれる主体である。リビドーはそれ自体、死の欲動である。したがってリビドーの主体は、死の欲動に苦しみ苛まれる。

Le terme de masochisme veut dire que c'est d'abord le sujet qui pâtit de la pulsion de mort. La libido est comme telle pulsion de mort, et le sujet de la libido est donc celui qui en pâtit, qui en souffre. (J.-A. Miller,  LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989)



自己身体への固着[fixation sur le corps propre]とあるが、これは究極的には女性器への固着、子宮への固着である。


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破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である[Le terme de ravage,…– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré](J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)

破壊は唯一、愛の享楽の顔である[le ravage, c'est seulement la face de jouissance de l'amour](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme   18/3/98 )


ラカンにおいて愛という語は上に示したように通常は想像界に位置づけられるが、ときに現実界の享楽=愛とする場合もある。そもそもフロイトの愛=リーベ[Liebeは、想像界象徴界現実界すべてをカバーする語である。それぞれ、自己愛[Selbstliebe]、対象愛[Objektliebe]、愛の欲動[Liebestriebe]あるいは自体性愛的欲動[autoerotischen Triebe] であり、ラカンのナルシシズム、欲望、享楽である。


そして自体性愛=享楽とは事実上、自己身体への固着愛である。


自体性愛(自己身体愛)から対象愛への発展において、ある点に固着されたままのものがあり、それは自体性愛に近似する[Sie sind in der Entwicklung vom Autoerotismus zur Objektliebe an einer Stelle, dem Autoerotismus näher, fixiert geblieben. ](フロイト『症例ハンス』第3章、1909年)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

ーー《自体性愛[Autoerotismus]。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人物に向けられたものではなく、自己身体[eigenen Körper」から満足を得ることである。それは自体性愛的である[Autoerotismus. …als den auffälligsten Charakter dieser Sexualbetätigung hervor, daß der Trieb nicht auf andere Personen gerichtet ist; er befriedigt sich am eigenen Körper, er ist autoerotisch]》(フロイト『性理論三篇』第2篇、1905年)


まだ『性理論』の段階ではフロイトは曖昧だが、後年になるとさらに「自己身体」とは究極的には、去勢された自己身体(喪われた自己身体)、乳幼児が自己身体と見做していた母の身体となり、これを異者としての身体と呼ぶ(参照)。




さて話を少し前に戻す。愛という語の使い方の多様性である。


死は愛である[la mort, c'est l'amour. ](Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)

死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance]. (ラカン, S17, 26 Novembre 1969)


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ナルシシズムの背後には、死がある[derrière le narcissisme, il y a la mort.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 06/04/2011)

ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,…l'amour c'est le narcissisme ](Lacan, S15, 10  Janvier  1968)


男性と女性とを比較してみると、対象選択の類型に関して両者のあいだに、必ずというわけではもちろんないが、いくつかの基本的な相違の生じてくることが分かる。アタッチメント型[Anlehnungstypus]にのっとった完全な対象愛[volle Objektliebe]は、本来男性の特色をなすものである。〔・・・〕


女性の場合にもっともよくみうけられ、おそらくもっとも純粋一で真正な類型と考えられるものにあっては、その発展のぐあいがこれとは異なっている。ここでは思春期になるにつれて、今まで潜伏していた女性の性器[latenten weiblichen Sexualorgane]が発達するために、根源的ナルシシズム[ursprünglichen Narzißmus ]の高まりが現われてくるように見える。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)


なおフロイトラカンが「女性的」という語を使用するとき必ずしも常に生物学的男女ではないことに注意されたし。上のナルシシズム論の文は明らかに解剖学的女性だが。


フロイトは女性的という語を受動的という意味で使っていることが多い。



マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的 である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)

大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である。問題となっている大他者は何か?この常なる倒錯的享楽見たところ、(母子)二者関係に見出しうる。その関係における不安この不安がマゾヒストの盲目的目標である。


D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance. …

Où est cet Autre dont il s'agit ?    …toujours présent dans la jouissance perverse, …situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse…cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste, (ラカン, S10, 6 Mars 1963)


乳幼児はみな女性的受動的でありマゾヒストである。


他にも例えば高所恐怖症はマゾヒズムである。


外部(現実)の危険は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化されざるをえないのであって、この外部の危険は寄る辺なさ[Hilflosigkeit])経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。

Anderseits muß auch die äußere (Real-) Gefahr eine Verinnerlichung gefunden haben, wenn sie für das Ich bedeutsam werden soll; sie muß in ihrer Beziehung zu einer erlebten Situation von Hilflosigkeit erkannt werden 

注)自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自分自身にむけられた破壊欲動[Destruktionstrieb]としてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症[Höhenphobien](窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している。

[Fußnote]Es mag oft genug vorkommen, daß in einer Gefahrsituation, die als solche richtig geschätzt wird, zur Realangst ein Stück Triebangst hinzukommt. Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. Vielleicht erklärt diese Zutat den Fall, daß die Angstreaktion übermäßig und unzweckmäßig, lähmend ausfällt. Die Höhenphobien (Fenster, Turm, Abgrund) könnten diese Herkunft haben; ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe.. (フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)



先ほど引用した文でラカンは「不安がマゾヒストの盲目的目標」としているが、フロイトにとって原不安は出産外傷である。



不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11B1926年)

不安は対象を喪った反応として現れる。最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる[Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, [] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand.](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


原不安の別名は原トラウマである。


出産外傷「Das Trauma der Geburt]=母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]=原抑圧[Urverdrängung]=原トラウマ [Urtrauma](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)




ここまで記してきたマゾヒズムがラカンの現実界の享楽、フロイトの死の欲動の核である。


享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert] (Lacan, S23, 10 Février 1976)

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。そしてマゾヒズムはサディズムより古い。Masochismus … für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. … daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, 〔・・・〕


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)



フロイトにとって死の欲動の核は母胎回帰である。


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, ](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, …eine solche Rückkehr in den Mutterleib. ](フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)


フロイトラカンにおいて、基本的には男女両性にある死の欲動だとはいえ、子宮を抱えている解剖学的女性のほうが死の欲動は現れやすいということはおそらく言いうる。


すべての欲動は実質的に、死の欲動である[toute pulsion est virtuellement pulsion de mort](Lacan, E848, 1966年)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel …la mort, dont c'est  le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)



なおラカンにとって、死の欲動としての原マゾヒズムは原ナルシシズムと等価である(参照)。