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2021年11月18日木曜日

生垣の穴


けやきの葉先が黄色にぼける頃

遠く遠く生垣にたよつて

猿の鳴く山の町へ行け

白い裸の笛吹きのように言葉を忘れた

舌をきられたプロクネ

口つぼむ女神に 

鶏頭の酒を

真珠のコップへ

つげ

いけツバメの奴

野ばらのコップへ。

角笛のように

髪をとがらせる

女へ

生垣が

終わるまで


ーー西脇順三郎「プレリュード」『第三の神話』


鶏頭に隠れるごとしワカメ酒

(鶏頭に隠るるごとし昼の酒 波郷)



生垣にはグミ、サンショウ、マサギ

が渾沌として青黒い光りを出している

この小径は地獄へ行く昔の道

プロセルピナを生垣の割目から見る

偉大なたかまるしりをつき出して

接木をしている


ーー「夏(失われたりんぼくの実)」



人生の通常の経験の関係の世界はあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるか、また生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない。要するに通常の人生の関係を少しでも動かし移転しなければ、そのままの関係の状態では永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「あむばるわりあ あとがき(詩情)」)



水銀の苦しみに呪われた

青ざめた旅人は

片目を細くして

破れたさんざしの生垣の

穴をのぞいている


ーー「坂の五月」



突然、幼時のある甘美な回想に胸を打たれて、私は小さな窪道のなかに立ちどまった「Tout d'un coup dans le petit chemin creux, je m'arrêtai touché au cœur par un doux souvenir d'enfance : ]、私は気づいたのであった、ふちの切れこんだ、色つやの美しい葉の、しげりあって、道ばたにのびでているのが、さんざしの藪だということに、それは春のおわりもとっくに過ぎて、ああ、その花も散ってしまったさんざしの藪[un buisson d'aubépines défleuries]なのであった。私のまわりには、昔のマリアの月や、日曜日の午後や、忘れられたいろいろな信仰や過失などの雰囲気がただよってきた。私はその雰囲気をとらえたかった。私は一瞬のあいだ立ちどまった、するとアンドレは、私の心をやさしく占って、私がその瀧木の葉とひととき言葉を交すのを、そっと見すごしてくれた。私は花たちの消息を、それらの葉にたずねた、そそっかしくて、おしゃれで、信心深い、陽気な乙女たちにも似た、あのさんざしの花たちの消息を。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)



連想を破ることだ

意識の解釈をしない

コレスポンダンスも

象徴もやめるのだ

さんざしの藪の中をのぞくのだ

青い実ととび色の棘をみている

眼は孤立している


ーー「夏(失われたりんぼくの実)」




こちらの方向にやってくる女の子が、見えたなと思う間もあるかなしである、にもかかわらずーー人間の美は、事物のそれとはちがって、意識と意志とをもった、独自な生物の美である、という感覚をわれわれはもっているためにーー彼女の個性、つまり漠とした魂、私には未知の意志である彼女の個性が、ぼんやりとさまよわせている彼女のまなざしの奥深くに、ひどく縮小されながらも完全な小映像として、宿っているのが見わけられると、すぐに、準備がととのった花粉への、雌蓋の神秘な応答[mystérieuse réplique des pollens tout préparés pour les pistils]のように、私は、その娘の思念に私という人間を意識させないでは彼女を通すまい、誰か他の男のところへ行こうとする彼女の望をさまたげないでは通すまい、彼女の夢想のなかに私がはいってそこに落ちつき、彼女の心をつかんでしまうまでは通すまいと思う欲望の、おなじように漠とした、微小な胚珠が、私のなかにきざすのを感じるのであった[je sentais saillir en moi l'embryon aussi vague]。しかしそのあいだに馬車は遠ざかり、美しい娘はもう私たちの背後に残され、彼女は私について、一個の人間を構成するなんの概念ももたないから、私を見たか見ないで過ぎた彼女の目は、すでに私を忘れさっていた。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)


生垣の

さんざしの秋の中に

あごをさして

居眠る

乞食の頭を

よこぎる

むらさきの夢は

ミローの庭の

断面

に黒く流れる


ーー「秋」



「あの娘さんたちはもうとっくに行ってしまいましたよ」とそれらの葉は私にいうのであった。おそらく、それらの葉は、この私が、あの娘さんたちの親友と称している男にしては、彼女らの習慣を知っているようすが見えない、と考えたにちがいない。親友は親友だが、こちらは、約束をしておきながら、もう何年も再会していなかったのだ。それにしても、ジルベルトが少女への私の初恋であったように、さんざしは花への私の初恋であったのだ。「ああ、そうだったね、六月の中ごろにはもう行ってしまうんだね」と私は答えた、「だが、あの娘さんたちがここに住んでいたという場所を見るだけでも、ぼくにはとてもうれしいんだ。ぼくが病気だったとき、ぼくの母にみちびかれて、コンプレーのぼくの部屋に会いにきてくれたんだ。マリアの月には、土曜の夕方、ぼくらはいつも顔をあわせたっけ。こんなところからでも娘さんたちは出かけることができるんだね?」ー「行けますよ! もちろんです! それに、ここに一番近い教区のサン = ドニ = デュ = デゼールの教会でも、あの娘さんたちをとてもほしがっているんですよ。」

ーー「ところで、いま会おうと思ったら?」ーー「それはどうも! むりでしょう、来年の五月まではね。」ーー「では、そのときはたしかにここにいるんだね?」ーーー「毎年きまったように。」ーー「ただ、ぼくにこの場所がうまく見つかるかどうかわからないんだが。」ーー「わかりますとも! あの娘さんたちはとても陽気で、讃美歌をうたうときしか笑うことをやめません、ですから、見そこなうことはありませんよ、小道のはずれからでもその匂でわかりますよ。」(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)



時間はとまつてしまった

永遠だけが残ったこの時間のない

ところに顔をうずめてねむつている

「汝を愛するからだ  おお永遠よ」

もう春も秋もやつて来ない

でも地球には秋が来るとまた

路ばたにマンダラゲが咲く


ーー「坂の五月」



おお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか?

- wann, Brunnen der Ewigkeit! du heiterer schauerlicher Mittags-Abgrund! wann trinkst du meine Seele in dich zurück?" (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「正午 Mittags」)



竹藪に榧の実がしきりに落ちる

アテネの女神に似た髪を結う

ノビラのおつかさんの

「なかさおはいりなせ--」という

言葉も未だ今日はきかない。 


ーー西脇順三郎「留守」



恐らく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女ではなかろうか? 恐らくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?…[Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... ](ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年)



女から

生垣へ

投げられた抛物線は

美しい人間の孤独へ憧れる人間の

生命線である


ーー「キャサリン」『近代の寓話』






ああ すべては流れている 

またすべては流れている 

ああ また生垣の後に 

女の音がする


ーー「野原の夢」『禮記』




おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。 Wer mit wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein(ニーチェ『善悪の彼岸』146節、1886年)







川の瀬の岩へ

女が片足をあげて

「精神の包皮」

を洗っている姿がみえる

「ポポイ」

わたしはしばしば

「女が野原でしゃがむ」

抒情詩を書いた

これからは弱い人間の一人として

山中に逃げる


ーー吉岡実「夏の宴」 西脇順三郎先生に





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