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2021年11月18日木曜日

反キャンセルカルチャーの連中自体、喜劇役者である

政治の話はいいよ、もう。少なくとも今は音楽と生垣の穴に集中してるんだ。

ま、でも在庫のなかから貼り付けるぐらいはしておこうか。

 こういったのを掲げると、「またいつものジジェク節か」ということになるんだろうが、敢えて提示するよ。


建て前としてのリベラル的目覚め[wokeness](差別や不平等等への目覚め=社会正義)とキャンセルカルチャー[cancel culture]は、世界で起こっている事への目覚めと世界を変えようとする事とはほとんど関係がない。たんにノイズのためのノイズだ。現状は注意深く維持されている。


想定されたリベラル中道のいわゆる「目覚めたキャンセルカルチャー(woke cancel culture )」へのアプローチは過激に見えるかもしれない。…だが過激どころではない。私はベン・ブルギスは正しく主張していると考えている。彼は言う、キャンセルカルチャーの目覚めたエージェントは「世界が燃えているなか喜劇役者をキャンセルしている」と。




連中による新しい禁止と規則の押し付けは、エセ行動の典型的事例のひとつだ。いかに何もほんとうには変わらないようにするかを、熱狂的な振る舞いを装うことによって為されている。何の不思議でもない。資本の新しい形態とくにアンチトランプのテクノロジーキャピタリスト(グーグル、アップル、フェイスブック)は熱心にアンチレイシストとプロフェミニストの闘争を支持している。この目覚めた資本主義(woke capitalism)がわれわれの現実だ。


人は彌縫的処方箋によっては真に物事を変えない。表面的な「正義の」バランスの確立を目指すことによっては世界は変貌しない。底に横たわる不平等の原因を攻撃することなしでは。(Slavoj Žižek: The difference between ‘woke’ and a true awakening, 10 Jun, 2021 )



ジジェクの論理やその向こうにいるマルクスに厳密に従うなら、反キャンセルカルチャーの連中自体、喜劇役者だよ。底に横たわる不平等の原因を攻撃していないなら。《リアルな土台[die reale Basis](としての)社会の経済的構造[die ökonomische Struktur der Gesellschaft]》(マルクス『経済学批判』)ーーつまり新自由主義の時代にはことさら顕著になった「経済的下部構造」を問うていなかったら。



ジジェクがしばしば引用してきたホルクハイマーの言葉がある。


資本主義について批判的に語りたくない者はファシズムについても沈黙すべきである。Wer aber vom Kapitalismus nicht reden will, sollte auch vom Faschismus schweigen." (マックス・ホルクハイマー Max Horkheimer「ユダヤ人とヨーロッパ Die Juden und Europa.」1939年)


ーーナチスに追われ米国で教鞭をとっていたフランクフルト学派の代表ホルクハイマーが、1939年にこう言ったのである。で、これは今ならいっそうそうだ。地階にある資本主義批判をしていないあらゆる上部構造の批判は沈黙すべきだ、とまでは言わないでおくが。






左翼はひどく悲劇的状況にある。彼らは言う、「資本主義は限界だ。われわれは新しい何かを見出さねばならない」と。だがあれら左翼連中はほんとうに代案のヴィジョンをもっているのか? 左翼が主として語っていることは、人間の顔をした世界資本主義[global capitalism with a human face]に過ぎない。私は左翼を信用していない[I don't trust leftists ](Slavoj Žižek interview: “Trump created a crack in the liberal centrist hegemony” 9 JANUARY 2019



ここでナンシー・フレイザーを引こう。


フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか--そしてどのように再生できるか[How feminism became capitalism's handmaiden - and how to reclaim it」

ナンシー・フレイザー  Nancy Fraser  The Guardian, 14 Oct 2013

わたしはフェミニストとして、女性解放のために闘うことで、より良い世界ーーより平等で、公正で自由なーーを築いているといつも考えていた。だが最近、フェミニストたちによって開拓されたそのような理想がかなり違った結果をもたらしているのではないかと不安を感じ始めた。とくに、わたしたちの性差別批判が、いまや不平等と搾取の新しい形式のための正当化を供給しているのではないかと。 our critique of sexism is now supplying the justification for new forms of inequality and exploitation.


運命の残酷な旋回により、女性解放のための運動は自由市場の社会を築くためのネオリベラルな努力との危険な結びつきに巻き込まれてしまったのではないかとわたしは恐れている。それは、かつてはラディカルな世界観の一部を構成したフェミニストの思考がますます個人主義的な用語によって表現されているさまを説明するだろう。かつてフェミニストがキャリア至上主義を促進する社会を批判した場で、それは今や女性に「がんばる」よう助言する。かつては社会的連帯を優先した運動が今や女性の起業を称揚する。かつては「ケア」や相互依存の価値を発見した世界観がいまや、個人の達成や能力主義を奨励する。


この移行の背後にあるのは、資本主義の性格の変貌だ。戦後の国家管理型資本主義は新しい形式の資本主義ーー「組織されない」、グローバルな、ネオリベラリズムーーに道を譲った。第二波フェミニズムは前者への批判として現れたが、後者の侍女になってしまった。

What lies behind this shift is a sea-change in the character of capitalism. The state-managed capitalism of the postwar era has given way to a new form of capitalism – "disorganised", globalising, neoliberal. Second-wave feminism emerged as a critique of the first but has become the handmaiden of the second.



批判能力ーーカント的な、自分が暗黙に前提としている条件を吟味する能力ーーを少しでも持ち合わせている聡明な全フェミニストの方ならこのナンシーフレイザーをきっと受け入れることだろう、そういった人材は今の日本には稀有だろうが。


というわけでポリコレフェミもちろん喜劇役者である。アンチフェミ? 彼らももちろん!



M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 》(マルクス)である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016)


利子生み資本では、自動的フェティッシュ[automatische Fetisch]、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣が完成されている。

Im zinstragenden Kapital ist daher dieser automatische Fetisch rein herausgearbeitet, der sich selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld〔・・・〕


ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt] と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 [begriffslose Form]、生産諸関係の至高の倒錯と物件化[Verkehrung und Versachlichung]、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化[ die Kapitalmystifikation in der grellsten Form.]である。(マルクス『資本論』第三巻第二十四節 Veräußerlichung des Kapitalverhältnisses usw.)




そもそもツイッターは他人への受け狙いを助長する装置だ、リツートやらファヴォやらを気にしつつあんなのを延々と使っているヤカラは喜劇役者に決まっている。とくにハッシュタグなんてマガオで使っている連中は資本の論理装置にドップリ使ったモロ喜劇役者だ。


ネット社会の問題⋯⋯⋯。横のつながりが容易になったが、SNS上で「いいね!」数を稼ぐことが重要になった。人気や売り上げだけを価値とする資本主義の論理に重なります。他方、一部エリートにしか評価されない突出した作品や、大衆のクレームを招きかねないラディカルな批評は片隅に追いやられる。仲良しのコミュニケーションが重視され、自分と合わない人はすぐに排除するんですね。 (「逃走論」、ネット社会でも有効か 浅田彰さんに聞く、2018年1月7日朝日新聞)



もっともシェイクスピア的に言えば、人はみなそれぞれの仕方でコメディアンかもしれないが。



この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ[All the world's a stage, And all the men and women merely players.](シェイクスピア「お気に召すまま」)