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2021年11月19日金曜日

Eric Lu 賛、ーー夜と薄明への祈り

生垣の穴」で最後に一見何の脈絡なくもなく(?)貼り付けた次の表は、何よりもまずエリック・ルー賛の意図がある。Eric Luは1997年生まれ。シューマンの「幽霊変奏曲Geistervariationen」をYouTubeでいくつか聴くなかで出会った。





Eric Lu

Uchida

Anderszewski

Schumann

Gesänge der Frühe



Geistervariationen


Schubert

D959 andantino




エリック・ルーは主題だけしか演奏していないが、彼の亡霊テーマの演奏は、他の大家たちの演奏と比較しても、とても気に入ったね。何箇所か(ボクの趣味だと)フレーズ移行の間合いが早すぎると感じるところはあるが、一番気に入ったと言ってもよい、その静謐さが。ひょっとしてちょっと危ないタイプかもしれない、あそこに現れている奈落の底の感覚、「冥府の歌」の感じが。




夜と音楽。--恐怖の器官[Organ der Furcht] としての耳は、夜においてのみ、暗い森や洞穴の薄明のなかでのみ、畏怖の時代の、すなわちこれまで存在した中で最も長かった人間の時代の生活様式に応じて、現在見られるように豊かな発展することが可能だった。光のなかでは、耳はそれほど必要ではない。それゆえに、夜と薄明の芸術としての音楽の性格がある[der Charakter der Musik, als einer Kunst der Nacht und Halbnacht]。 (ニーチェ『曙光』250番、1881年)


美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。

Denn das Schöne ist nichtsals des Schrecklichen Anfang, den wir noch grade ertragen,nund wir bewundern es so, weil es gelassen verschmäht,uns zu zerstören. Ein jeder Engel ist schrecklich. (リルケ『ドゥイノ・エレギー』1922年「第一の悲歌」古井由吉訳)



ーーあの曲の別名が「天使の主題による変奏曲」であるのはこの文脈のなかで捉えなければならない。


私は音楽の形は祈りの形式に集約されるものだと信じている。私が表したかったのは静けさと、深い沈黙であり、それらが生き生きと音符にまさって呼吸することを望んだ。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』1971年)





エリックルーは若いのにすごいのではない、逆に若いときにはある種の人は、ウィトゲンシュタインの日記にある《亡霊たちのざわめき Geräusch der Gespenster》にいっそう親和性がある。詩人たちの傑作は青春期か老年期かに生まれることが多い。中年期には優れた詩人でさえあのざわめき親和性は消える傾向にあるように感じる。愛するピアニストの例を上げるなら、アファナシエフAfanassievには強くそう感じる(彼の最初期のシューベルトD664、そして後期のD960、D 959の愛好家として言うが)。


亡霊の声、冥府の声というのはもちろん究極は、死の声だ。






死とは、私たちに背を向けた生の相であり、私たちが決して見ることのない生の相です。すなわち私たちの実存[Daseins]の偉大なる気づきを可能な限り獲得するよう努めなければなりません。Der Tod ist die uns abgekehrte, von uns unbeschienene Seite des Lebens: wir müssen versuchen, das größeste Bewußtsein unseres Daseins zu leisten (リルケ書簡 Rainer Maria Rilke, Brief an Witold von Hulewicz vom 13. November 1925ーー「ドゥイノの悲歌」について)


愛するものを歌うのはよい。しかし、あの底ふかくかくれ棲む罪科をになう血の河神をうたうのは、それとはまったく別なことだ。恋する乙女が遥かから見わけるいとしいもの、かの若者みずからは、その悦の王 Herren der Lustについて何を知ろう。…

EINES ist, die Geliebte zu singen. Ein anderes, wehe, jenen verborgenen schuldigen Fluß-Gott des Bluts. Den sie von weitem erkennt, ihren Jüngling, was weiß er selbst von dem Herren der Lust, 


聴け、いかに夜がくぼみ、またえぐられるかを。星々よ、いとしい恋人への彼の乞いは、あなたから来るのではなかったか。…

Horch, wie die Nacht sich muldet und höhlt. Ihr Sterne, stammt nicht von euch des Liebenden Lust zu dem Antlitz seiner Geliebten


朝風に似て歩みもかるくすがしい乙女よ、あなたの出現がかれをかほどまでに激動さしたと、あなたはほんとうに信ずるのか。まことにあなたによってかれの心は驚愕した。けれど、もっと古くからの恐怖がこの感動に触発されてかれの中へと殺到したのだ。彼を揺すぶれ、目覚めさせよ…しかしあなたは、彼を暗いものとの交わりから完全に呼びさますことはできない。Meinst du wirklich, ihn hätte dein leichter Auftritt also erschüttert, du, die wandelt wie Frühwind? Zwar du erschrakst ihm das Herz; doch ältere Schrecken stürzten in ihn bei dem berührenden Anstoß. Ruf ihn . . .  du rufst ihn nicht ganz aus dunkelem Umgang. (リルケ『ドゥイノエレギー』第三歌)


悦 Lustが欲しないものがあろうか。悦は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。悦のなかに環の意志が円環している。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年

死への道は、悦と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (Lacan, S17, 26 Novembre 1969)


で、冥府の声は生垣の穴の声だ、結局。ここで子宮理論につながる。


真の美は悦に対する最後の防衛である。



美は常に奇妙なものである。…私が言いたいのは、美の中には、常に、少量の奇妙さ、素朴な、故意のものではない、無意識の奇妙さがふくまれており、「美」を特に「美」たらしめているものは、まさにこの奇妙さだということである。それは、美の登録証明であり、特徴なのだ。Le beau est toujours bizarre. ... Je dis qu'il contienttoujours un peu de bizarrerie, de bizarrerie naïve, non voulue, inconsciente, et que c'est cette bizarrerie qui le fait êtreparticulièrement Beau.C'est son immatriculation, sa caractéristique.(ボードレール, Curiosités esthétiques, 1868)


◼️bizarre=étrangeté

ひとりの女は奇妙なものである。ひとりの女は異者である。 ce qu'on appelle une femme, il faut le dire, c'est une bizarrerie, c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)


◼️étrangeté=unheimlich

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


すなわち、奇妙=異者=不気味なもの、つまり、


美は常に奇妙なものである[Le beau est toujours bizarre ]

➡︎ 美は常に不気味なものである[Le beau est toujours unheimlich.]


不気味なものは秘密の親密なものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[daß Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第3章、1919年)

不気味ななかの親密さ[heimisch im Unheimlichen](フロイト『ある錯覚の未来』第3章、1927年)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)


ニーチェのいう「夜と薄明の芸術」の起源はあそこにしかない。


◼️美は異者である[Le beau est étrange.]

子供はもともと母、母の身体に生きていた[l'enfant originellement habite la mère …avec le corps de la mère] 。〔・・・〕子供は、母の身体に関して、異者としての身体、寄生体、子宮のなかの、羊膜によって覆われた身体である[il est,  par rapport au corps de la mère, corps étranger, parasite, corps incrusté par les racines villeuses   de son chorion dans …l'utérus](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)


ーー《現実界のなかの異者概念(異者としての身体概念)は明瞭に、悦と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


◼️美は穴に対する最後の防衛である。


美は現実界に対する最後の防衛である[la beauté est la défense dernière contre le réel.](J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlant, 2014)


女の壺は空虚だろうか、それとも満湖[plein]だろうか。…女の壺は何も欠けていない[Le vase féminin est-il vide, est-il plein ? (…) Il n'y manque rien ](Lacan, S10, 20 Mars 1963)

不気味なものは、欠如が欠如していると表現しうる[L'Unheimlich c'est …si je puis m'exprimer ainsi - que le manque vient à manquer.  ](Lacan, S10, 28 Novembre 1962、摘要)

欠如の欠如が現実界を為す[Le manque du manque fait le réel] (Lacan, AE573, 17 mai 1976)

現実界は、穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)




蚊居肢散人ってのはこの専門家だからな、何したって生垣の穴に行き着くんだ。


スカートの内またねらふ藪蚊哉 

スカートのいよよ短し秋のかぜ


ーー『断腸亭日乗』昭和十九年甲申歳 荷風散人年六十有六)


芸術とは所詮、情慾の一変形に外ならぬ。名文家と好色家との間にある心理的もしくは生理的な必然の関係は将来必ず研究発表されるであらう。ダンヌンチオの詩文、レニヱーのもの、わが荷風文学も亦その時の有力な証左として引用さるべきものであらう。色情は本来、生物天与の最大至高のものである。それを芸術にまで昇華発散させるのが人間獣の能力、妙作用である。色情によつて森羅万象、人事百般を光被させるのが所謂芸術の天分である。グルモンの所説の如く美学の中心は心臓よりももつと下部にある。この認識が荷風文学を理解の有力な鍵である。(佐藤春夫「永井荷風」1952年)


これまでのところ、人間の最高の祝祭は生殖と死であるに違いない[So weit soll es kommen, daß die obersten Feste des Menschen die Zeugung und der Tod sind!  ](ニーチェ遺稿137番、1882 - Frühjahr 1887)

芸術や美へのあこがれは、性愛欲動の歓喜の間接的なあこがれである[Das Verlangen nach Kunst und Schönheit ist ein indirektes Verlangen nach den Entzückungen des Geschlechtstriebes]   (ニーチェ遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )

すべての美は生殖を刺激する、ーーこれこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質である[daß alle Schönheit zur Zeugung reize - daß dies gerade das proprium ihrer Wirkung sei, vom Sinnlichsten bis hinauf ins Geistigste..]. (ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」22節『偶像の黄昏』1888年)




上にあげた中井久夫=安永浩のファントム空間図だってマドレーヌのパクリだろうな、としか思ってないよ。




溝の入った帆立貝の貝殻のなかに鋳込まれたかにみえる〈プチット・マドレーヌ〉と呼ばれるずんぐりして丸くふくらんだあのお菓子の一つ[un de ces gâteaux courts et dodus appelés Petites Madeleines qui semblent avoir été moulés dans la valve rainurée d'une coquille de Saint-Jacques ](プルースト 「スワン家のほうへ」)

厳格で敬度な襞の下の、あまりにぼってりと官能的な、お菓子でつくった小さな貝の身[petit coquillage de pâtisserie, si grassement sensuel sous son plissage sévère et dévot ](プルースト「スワン家のほうへ」)

マドレーヌは母胎を表象している[la madeleine, …représente le ventre maternel] (フィリップ・ルジェンヌ「エクリチュールと性」Philippe Lejeune, L'Ecriture et Sexualité, 1970)