ボクは記述上、欲望/享楽を対比させている場合が多いけど、二元論じゃないよ。
できるだけ簡単に示そう。
右の上辺のAは大他者であり、欲望。
欲望は大他者に由来する[le désir vient de l'Autre](ラカン, E853, 1964年) |
左の上辺のi(a) は自己愛=ナルシシズムであり、ラカンにとっての愛。 |
理想自我は自己愛に適用される。ナルシシズムはこの新しい理想的自我に変位した外観を示す。[Idealich gilt nun die Selbstliebe, …Der Narzißmus erscheint auf dieses neue ideale Ich verschoben](フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年) |
理想自我[ i'(a) ]は、自我[i(a) ]を一連の同一化によって構成する機能である[Le moi-Idéal [ i'(a) ] est cette fonction par où le moi [i(a) ]est constitué par la série des identifications ](Lacan, S10, 23 Janvier l963) |
ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,… l'amour c'est le narcissisme ](Lacan, S15, 10 Janvier 1968) |
下部のaは穴であり、享楽。 |
享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970) |
対象aは穴である[l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel] (ラカン, S16, 27 Novembre 1968) |
したがって次のとおり。
左の上辺は想像界、右の上辺は象徴界、下部は現実界。
そして想像界は象徴界によって構造化されている。
想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes… et structuré :… cette fonction symbolique](ラカン, S2, 29 Juin 1955) |
したがって通常は、欲望/享楽として示されることが多い。 |
欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である[le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.]( ラカン、E825、1960) |
なぜ欲望は享楽に対する防衛なのか。なぜなら享楽はフロイトの死の欲動だから。 |
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (Lacan, S17, 26 Novembre 1969) |
この意味で、人はみな欲望の主体である。ただし完全には防衛できない。下部の残滓がある。
この図で享楽が斜線を引かれているのは穴だから。aとしてもいいのだが、残滓aとの混同を避けるためにそう示されている。
享楽は残滓 (а) による[la jouissance…par ce reste : (а) ](Lacan, S10, 13 Mars 1963) |
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フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963) |
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異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,… absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963) |
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対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963) |
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ここから後期ラカンにつながっていくのだが(サントーム=固着)、たぶん上を十分に理解していないとかなり難しい。より詳しくは、もし知りたければ(ここではナマの文献集だけをリンクしておくが)、「異者としての身体文献Z」参照。 難しいところはいいから、何よりも肝腎なのは、人はみな欲望の主体だと言っても、享楽の残滓が必ずあるので、人によってその残滓の多寡はあれ、みな享楽の主体の相があるということ。この意味で「欲望/享楽」は二元論ではない。
享楽とは何よりもまず「欲動の身体」le corps de la pulsion のことだーー《ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance]》(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)ーー、ラカンには直接的にはこの言葉はないが(ミレールにも私の知りうる限りない、もっともリビドーの身体[le corps libidinal]とは言っており同じこと)、以下の引用群からそう置ける。
ーー《リビドーは、穴に関与せざるをいられない[La libido, …ne peut être que participant du trou.]》(Lacan, S23, 09 Décembre 1975) このリビドーの身体=欲動の身体をシニフィアン化(言語化)したものーー「ファルスの意味作用」というがーー、それが欲望。
フロイトが「願望」で示しているのは例えば、両親や子供の愛[Eltern- und Kindesliebe]、友情[Freundschaft]、普遍的な人類愛[allgemeine Menschenliebe]、具体的な対象や抽象的な理念への献身[Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen]等々だが、こういったものはすべて欲望だということ。ミレールの別の定義では大他者への愛[l'amour de l'Autre]が欲望であり、神への愛も当然、欲望。 簡単に示すつもりで長くなってしまったが、以上。 ※より精緻な注釈は「享楽の残滓Z」を参照。 |