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2021年11月20日土曜日

非常識の方のためにーーエロトスあこがれ版


愛することと没落することとは、永遠の昔からあい呼応している。愛への意志、それは死をも意欲することである。おまえたち臆病者に、わたしはそう告げる。Lieben und Untergehn: das reimt sich seit Ewigkeiten. Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode. Also rede ich zu euch Feiglingen! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』  第2部「無垢な認識」1884年)

愛は死の欲動の側にある[l'amour est du côté de la pulsion de mort.] (Jean-Paul Ricœur, LACAN, L'AMOUR, 2007)


ラカンの欲動一元論(エロスもタナトスも死の欲動)ってのは、もう何回も記してるから、前回は敢えて外してリンクもしてないだけだよ。もうこの話はマンネリ気味なんだ。


以下すごく簡潔版だ。

フロイトの愛=リーベ[Liebe]は、(ラカンの)愛、欲望、享楽をひとつの語で示していることを理解しなければならない[il faut entendre le Liebe freudien, c’est-à-dire amour, désir et jouissance en un seul mot. ](J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


ラカンにとって愛とはナルシシズムだ。


ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,…  l'amour c'est le narcissisme  ](Lacan, S15, 10  Janvier  1968)


まず愛と欲望についてーー、


愛と欲望…これはナルシシズム的愛とアタッチメント(愛着)的愛のあいだのフロイトの区別である[l'amour et le désir …la distinction freudienne entre l'amour narcissique et l'amour anaclitique]〔・・・〕

ナルシシズム的愛は自己への愛にかかわる。アタッチメント的愛は大他者への愛である。ナルシシズム的愛は想像界の軸にあり、アタッチメント的愛は象徴界の軸にある[l'amour narcissique concerne l'amour du même, tandis que l'amour anaclitique concerne l'amour de l'Autre. Si l'amour narcissique se place sur l'axe imaginaire, l'amour anaclitique se place sur l'axe symbolique ](J.-A. Miller「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)


想像界にある愛は自己への愛[l'amour du même]、象徴界にある欲望は大他者への愛[ l'amour de l'Autre]とあるが、これはフロイトの自己愛[Selbstliebe]と対象愛[Objektliebe]に相当する。


欲望は言語と結びついている。この言語の領域にはコミュニケーションがあり、大他者への呼びかけがある[le désir tient au langage  et à ce qui, dans le champ du langage, là où il est communication, fait appel à l'Autre. ](J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)



最後に享楽である。


享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel.] (Lacan, S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel …la mort, dont c'est  le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)


ーー享楽は死の欲動である。


欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.](J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)

すべての欲動は実質的に、死の欲動である[toute pulsion est virtuellement pulsion de mort](Lacan, E848, 1966年)


リビドー用語で言っても同じ。


ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である[Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

究極的には死とリビドーは繋がっている[finalement la mort et la libido ont partie liée]. (J.-A. MILLER,   L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99)


以上、享楽=欲動=リビドーであり、死の欲動である。


ところでフロイトはリビドーは愛の欲動だと言っている。


リビドーは愛の欲動である[Libido ist …Liebestriebe](フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、摘要)


というわけで、通念からすれば不思議に思われるかもしれないが、愛の欲動は死の欲動なのである:


Liebestriebe= Todestriebe


(表向きの言説ではなく)フロイトの別の言説が光を照射する。フロイトにとって、死は愛である[Un autre discours est venu au jour, celui de Freud, pour quoi la mort, c'est l'amour. ](Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance. (Lacan, S17, 26 Novembre 1969)



以上をまとめれば次のようになる。



ーーこれはもう「常識」にして欲しいね、


享楽を死の欲動とすることがお嫌いな方は、エロトスと言ってもよろしい。






菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。……菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。…


菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)


トリュフォー、あこがれ



ラカンによる享楽とは何か。…そこには秘密の結婚がある。エロスとタナトスの恐ろしい結婚である[Qu'est-ce que c'est la jouissance selon Lacan ? –…Se révèle là le mariage secret, le mariage horrible d'Eros et de Thanatos. ](J. -A. MILLER, LES DIVINS DETAILS,  1 MARS 1989)

享楽という語は、二つの満足ーーリビドーの満足と死の欲動の満足ーーの価値をもつ一つの語である[Le mot de jouissance est le seul qui vaut pour ces deux satisfactions, celle de la libido et celle de la pulsion de mort. ](J. -A. MILLER,  L'OBJET JOUISSANCE , 2016/3 )






さらにより厳密な観点からお知りになりたい方は、


➡︎愛の欲動は死の欲動である[Liebestriebe ist Todestriebe]