自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスのなかに置き残されたままである。[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück.](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年) |
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ーー《翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである[Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.]》(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ vom 6.12.1896)
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ラカンの「無意識は言語のように構造化されている」は、ある意味で「寝言」だったんだよ、少なくともフロイトは最初から最後までそんなことはまったく言っていない。
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無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage (Lacan, S11, 22 Janvier 1964) |
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前意識は言語のように構造化されている le préconscient est structuré comme un langage |
無意識は言語のように構造化されていない l'inconscient n'est pas structuré comme un langage |
前意識とは言語内で抑圧されたものでもある(後期抑圧)。他方、無意識は原抑圧されたもので、エスに身体的なものを置き残すこと。
フロイトはある時期以降ーー1926年以降はことさらーー「抑圧」という語を使う場合、「原抑圧」(排除あるいは固着)を示している場合がほとんどである。
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。 die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年) |
この引力の別名が穴である、《現実界は穴=トラウマを為す[le Réel …fait « troumatisme ».]》(ラカン、S21、19 Février 1974) |
話を戻せば、前意識でも意識されていないものという意味では、一般には「無」意識でよいのだが、フロイト文脈ではこの区別はひとつの核心であり外せない。ある時期までのラカンの混同は、ラカンの弟子だったAndré Greenの強い批判がある[参照]。日本でも中井久夫による批判がある。
ボロメオの環を使って示せば、前意識のポジションはグレーに塗った箇所。白が無意識。
事物表象[Sachvorstellung]はイメージ、語表象[Wortvorstellung]は言語である(モノと語表象の重なり目は、モノの表象化という意味での象徴的意味作用[symbolische Bedeutung] =ファルスの意味作用[Bedeutung des Phallus])
モノ表象[Dingvorstellung]に相当するものを晩年のラカンは「ララング」と呼んだ、ーー《ララングは、言語の構造から逃れ去るシニフィアンである。lalangue qui est le signifiant, dépouillé de la structure de langage》 (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 juin 2009)
そしてモノ表象はフロイトの語彙では次のポジションでもある(参照)。
モノとはエスのこと。
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976) |
忘れてはならない。フロイトによるエスの用語の発明を。(自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。〔・・・〕私はこのエスの確かな参照領域をモノ la Chose と呼んでいる。[N'oublions pas …à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es est actuellement tout à fait oubliée. … j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose.] (ラカン, S7, 03 Février 1960) |
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009) |
ラカンがセミネールⅩⅩになって次のように言ったとき、ようやくフロイトの真の無意識を捉えるることができるようになった。
◼️現実界の無意識(欲動の身体の無意識) |
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973) |
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ](Lacan, S20. 15 Mai 1973) |
その後に原抑圧を、欲動の身体にかかわる現実界として強調している。 ◼️欲動の現実界=原抑圧の無意識 |
身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. ](Lacan, S23, 09 Décembre 1975) |
欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。穴は原抑圧と関係がある[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou.…La relation de cet Urverdrängt](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975、摘要) |
もっとも原抑圧は「欲動の表象代理=固着」という意味での「原シニフィアン」ではある。次の文でラカンがシニフィアンと言っているのはその意味。
シニフィアンは享楽の原因である。シニフィアンなしで、身体のこの部分にどうやって接近できよう? [Le signifiant c'est la cause de la jouissance : sans le signifiant, comment même aborder cette partie du corps ?](Lacan, S20, December 19, 1972) |
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ーー巷間ではフロイトラカン学者でさえいまだ超自我と自我理想(=父の名)の混同が見られるが、まったくそうではない[参照]。 この固着としてのシニフィアンは、意味作用のない単独的な一者のシニフィアンであり、現実界的シニフィアンと呼びうる。
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