学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の偉大な問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない[Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: ](ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年) |
いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ[Man vergißt immer wieder, auf den Grund zu gehen. Man setzt die Fragezeichen nicht tief genug.](ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』未発表草稿) |
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「精神の中流階級」から逃れるためには「精神の上流階級」なんか目指したらダメだ。「エスの彷徨い」で記したが、まず「精神の下層階級」になることだ。 |
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においを嗅ぐ悦[Riechlust]のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている[alte Sehnsucht nach dem Unteren fort, nach der unmittelbaren Vereinigung mit umgebender Natur, mit Erde und Schlamm]。対象化することなしに魅せられるにおいを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動[Drang]について、証しするものである。だからこそにおいを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり――両者は実際の行為のうちでは一つになる――、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人であることにとどまっているが、嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう[Im Sehen bleibt man, wer man ist, im Riechen geht man auf. ]。だから文明にとって嗅覚は恥辱[Geruch als Schmach]であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。文明人にはそういう悦[Lust]に身をまかせることは許されない。(アドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』第5章、1947年) |
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上流階級なんか目指したら、宗教家とか哲学者になっちまうからな。
精神の下層階級の真の問いとは、より具体的には超自我の問いだ。 超自我とは今まで繰り返した内容だが、ここでも基本版を列挙しよう(享楽を悦に変換して示す)。
ラカンおよび現代主流ラカン派は厳密にフロイトに従っている。
で、超自我とは女なる神だ、ーー《女が欲することは神も欲する[Ce que femme veut, Dieu le veut]》(ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838)
以下コメント抜きで列挙する。これらを読んでわからないはずはないだろうから。
ーーようするにひとりの女は悦である。ひとりの女の原像はバウボである。
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ゴダール、(複数の)映画史3A |
神性はある。つまり神々はある。だが神はない![Das eben ist Göttlichkeit, dass es Götter, aber keinen Gott giebt!](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「新旧の表Von alten und neuen Tafeln 」第11節、1884年) |
私は多くの種類の神々があることを疑うことはできない[Ich würde nicht zweifeln, daß es viele Arten Götter gibt.](ニーチェ遺稿、Nachgelassene Fragmente) |
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女なるものは存在しない。女たちはいる[La femme n'existe pas. Il y des femmes,](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975) |
穴を為す現実界に、悦は外立する[C'est au Réel comme faisant trou, que la jouissance ex-siste. ](Lacan, S22, 17 Décembre 1974) |
神のタタリ(外立)[l'ex-sistence de Dieu] (Lacan, S22, 08 Avril 1975) |
つまり女なるものはバウボの境界表象であり、象徴秩序(言語秩序)には存在しない(原抑圧=排除されている)が、欲動の身体の審級にある現実界には腐るほどいる。
本源的に抑圧されている要素は、常に女なるものではないかと思われる[Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist ](フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897) |
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女なるものは、その本質において、女にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように[La Femme dans son essence, …elle est tout aussi refoulée pour la femme que pour l'homme](Lacan, S16, 12 Mars 1969) |
私が排除[forclusion]について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、〔・・・〕象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから[Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,[…]tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. ](Lacan、S16, 14 Mai 1969) |
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原抑圧は「現実界のなかに女なるものを置き残すこと」として理解されうる。[Primary repression can …be understood as the leaving behind of The Woman in the Real.] (PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1999) |
原抑圧の名、それは女なるものの排除である[le nom du refoulement primordial …que cette …la forclusion de la femme](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 26 novembre 2008) |
「享楽の排除」、あるいは「享楽の外立」。それは同じ意味である。terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011) |
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原抑圧のタタリ(外立 )[l'ex-sistence de l'Urverdrängt] (Lacan, S22, 08 Avril 1975) |
超自我と原抑圧との一致がある[ il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire .] (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982) |
以上、股の間にバウボを抱えた女なる超自我はタタルのである。この認識に至るのが真の精神の上流階級である。ーー《生命であふれた、桃色の、毛むくじゃらの、いやらしい蛸 [velues et roses, pleines de vie comme une pieuvre répugnante]。…「ほらね。あたしは神よ…[Tu vois, dit-elle, je suis DIEU...]」》(バタイユ『マダム・エドワルダ Madame Edwarda』1937年) タコのタタリの別名は「しゞま」の「ほ」である。 |
神のタタリ[l'ex-sistence de Dieu] (Lacan, S22, 08 Avril 1975) |
後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。〔・・・〕たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。〔・・・〕たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』) |
かくの如く私は聞いた。ある時、ブッダは一切如来の身語心の心髄である金剛妃たちの女陰に住しておられた[evaṃ mayā śrutam / ekasmin samaye bhagavān sarvatathāgatakāyavākcittahṛdayavajrayoṣidbhageṣu vijahāra ](『秘密集会タントラ』Guhyasamāja tantra) |
以上、シツレイしました。現在の世界には精神の中流階級以外は稀有であることは充分に存じ上げています。 |