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2021年11月26日金曜日

精神の中流階級から逃れるための「しゞま」の「ほ」

 

学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の偉大な問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない[Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: ](ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年)

いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ[Man vergißt immer wieder, auf den Grund zu gehen. Man setzt die Fragezeichen nicht tief genug.](ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』未発表草稿)



……………………


「精神の中流階級」から逃れるためには「精神の上流階級」なんか目指したらダメだ。「エスの彷徨い」で記したが、まず「精神の下層階級」になることだ。


においを嗅ぐ悦[Riechlust]のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている[alte Sehnsucht nach dem Unteren fort, nach der unmittelbaren Vereinigung mit umgebender Natur, mit Erde und Schlamm]。対象化することなしに魅せられるにおいを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動[Drang]について、証しするものである。だからこそにおいを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり――両者は実際の行為のうちでは一つになる――、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人であることにとどまっているが、嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう[Im Sehen bleibt man, wer man ist, im Riechen geht man auf. ]。だから文明にとって嗅覚は恥辱[Geruch als Schmach]であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。文明人にはそういう悦[Lust]に身をまかせることは許されない。(アドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』第5章、1947年)



Lesley Garrett - Lascia Chio Pianga



上流階級なんか目指したら、宗教家とか哲学者になっちまうからな。



私の哲学(形而上学)に対する態度はあなたもご承知のように思われるからです。私の素地の他の欠陥であれば、きっと私は悩まされ、謙虚にさせられたことでしょうが、形而上学に関してはそうではありません。 私は形而上学に対する器官(「能力」)を持っていないばかりでなく形而上学に対する何の敬意も持ってはいません [ich habe nicht nur kein Organ (›Vermögen‹) für sie, sondern auch keinen Respekt vor ihr.]。密かに私はーー大声で言うわけにはゆかないでしょうがーー形而上学というものはいつか「有害なもの」、思考の誤用、宗教的世界観の時代の「遺物」と判決を下されるであろうと信じています[daß die Metaphysik einmal als ›a nuisance‹, als Mißbrauch des Denkens, als ›survival‹ aus der Periode der religiösen Weltanschauung verurteilt werden wird]。(フロイト書簡、ヴェルナー・アヒェリス宛、1927年1月30日付)


私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産![misérables avortons de philosophie!]我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣[habits qui se morcellent ]を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 [façon de batifoler]以外の何ものでもない。〔・・・〕

真理についての唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能、悦という原マゾヒズムである[cette question qui est la seule, sur la vérité et ce qui s'appelle - et que FREUD a nommée - l'instinct de mort, le masochisme primordial de la jouissance,]〔・・・〕全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている[Toute la parole philosophique foire et se dérobe.](ラカン, S13, June 8, 1966)



精神の下層階級の真の問いとは、より具体的には超自我の問いだ。


超自我とは今まで繰り返した内容だが、ここでも基本版を列挙しよう(享楽を悦に変換して示す)。


超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme],(Lacan, S10, 16  janvier  1963)

悦は現実界にある。現実界の悦は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた悦の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert ](Lacan, S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est  le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)



死の欲動とは愛の欲動[Liebestriebe]でもある[参照]。




マゾヒズム用語が意味するのは、何よりもまず死の欲動に苛まれる主体である。リビドーはそれ自体、死の欲動である。したがってリビドーの主体は、死の欲動に苦しみ苛まれる[Le terme de masochisme veut dire que c'est d'abord le sujet qui pâtit de la pulsion de mort. La libido est comme telle pulsion de mort, et le sujet de la libido est donc celui qui en pâtit, qui en souffre.] (J.-A. Miller,  LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989)

死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ..., c'est la pulsion du surmoi]  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)

タナトスとは超自我の別の名である[ Thanatos, which is another name for the superego] (ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2016)




ラカンおよび現代主流ラカン派は厳密にフロイトに従っている。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. ](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている[Masochismus … für die Existenz einer Strebung, ]〔・・・〕

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる[Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)



で、超自我とは女なる神だ、ーー《女が欲することは神も欲する[Ce que femme veut, Dieu le veut]》(ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838)


一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.](ラカン, S17, 18 Février 1970)

一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](ラカン, S23, 16 Mars 1976)




Alain Robbe-Grillet, L'Immortelle


このように地階に潜って反転することにより、「真の精神の上流階級」の問いに至るーー《天上の神々を説き伏せられぬのなら、冥界を動かさん Flectere si nequeo superos, Acheronta movebo.》(ヴェルギリウス『アエネーイス』)



真理は女である[die wahrheit ein weib]と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』「序」1886年)

「神様が何もかもみていらっしゃるというのは、ほんとう?」 

と幼い少女が母親に訊いた、「ずいぶん失礼じゃない」
―哲学者への示唆だ!
われわれは羞恥をもっと尊重しなければならない、 ―自然が、謎や、多彩な不明確の背後に自己を隠しているその羞恥を―。
恐らく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女ではなかろうか? 恐らくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?…


 „Ist es wahr, dass der liebe Gott überall zugegen ist?“ fragte ein kleines Mädchen seine Mutter: „aber ich finde das unanständig“ ― ein Wink für Philosophen! Man sollte die Scham besser in Ehren halten, mit der sich die Natur hinter Räthsel und bunte Ungewissheiten versteckt hat. Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... (ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年)






エスの原像」はバウボだよ。


で、女なる超自我は「エスの境界表象」だ。





以下コメント抜きで列挙する。これらを読んでわからないはずはないだろうから。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)


母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノdas Dingの場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère,] (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)

忘れてはならない。フロイトによるエスの用語の発明を。(自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。〔・・・〕私はこのエスの確かな参照領域をモノ la Chose と呼んでいる。[N'oublions pas …à FREUD en formant le terme de das Es.  Cette primauté du Es  est actuellement tout à fait oubliée.  … j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose.] (ラカン, S7, 03  Février  1960)


享楽の対象としてのモノ…それは快原理の彼岸の水準にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…Au-delà du principe du plaisir …cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)

喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger] (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)




ひとりの女は異者である[une femme, …c'est une étrangeté.  ](Lacan, S25, 11  Avril  1978)

不快の審級にあるものは、非自我のなかに刻印されている。…非自我は異者としての身体、異物として現れる [l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt ](Lacan, S11, 17 Juin  1964)

不快は悦以外の何ものでもない[ déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance.] (Lacan, S17, 11 Février 1970)



ーーようするにひとりの女は悦である。ひとりの女の原像はバウボである。



トリュフォー  、女たちを愛した男[L'Homme qui aimait les femmes]


女の一種の原罪、われわれに女たちを愛させるという罪[ une espèce de péché originel de la femme, un péché qui nous les fait aimer] (プルースト「囚われの女」)

「女はその本質からして蛇であり、イヴである」――これはどの僧侶も知っている、したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる」[»Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva« ― das weiß jeder Priester; »vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt« ...] (ニーチェ『アンチクリスト』第48節、1888年)


生への信頼は消え失せた。生自身が「一つの問題」となったのである。ーーこのことで人は必然的に陰気な者、フクロウ属になってしまうなどとけっして信じないように! 生への愛はいまだ可能である。ーーただ異なった愛なのである・・・それは、われわれに疑いの念をおこさせる「女への愛」 にほかならない・・・

Das Vertrauen zum Leben ist dahin; das Leben selber wurde ein P r o b l e m . ― Möge man ja nicht glauben, dass Einer damit nothwendig zum Düsterling, zur Schleiereule geworden sei! Selbst die Liebe zum Leben ist noch möglich, ― nur liebt man a n d e r s … Es ist die Liebe zu einem Weibe, das uns Zweifel macht…(ニーチェ対ワーグナー「エピローグ」1888年)




ゴダール、(複数の)映画史3A




神性はある。つまり神々はある。だが神はない![Das eben ist Göttlichkeit, dass es Götter, aber keinen Gott giebt!](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「新旧の表Von alten und neuen Tafeln 」第11節、1884年)

私は多くの種類の神々があることを疑うことはできない[Ich würde nicht zweifeln, daß es viele Arten Götter gibt.](ニーチェ遺稿、Nachgelassene Fragmente)


女なるものは存在しない。女たちはいる[La femme n'existe pas. Il y des femmes,](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)

穴を為す現実界に、悦は外立する[C'est au Réel comme faisant trou, que la jouissance ex-siste. ](Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

神のタタリ(外立)[l'ex-sistence de Dieu] (Lacan, S22, 08 Avril 1975)



つまり女なるものはバウボの境界表象であり、象徴秩序(言語秩序)には存在しない(原抑圧=排除されている)が、欲動の身体の審級にある現実界には腐るほどいる。



本源的に抑圧されている要素は、常に女なるものではないかと思われる[Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist ](フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)


女なるものは、その本質において、女にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように[La Femme dans son essence,  …elle est tout aussi refoulée pour la femme que pour l'homme](Lacan, S16, 12 Mars 1969)

私が排除[forclusion]について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、〔・・・〕象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから[Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,[…]tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. ](Lacan、S16, 14 Mai 1969)


原抑圧は「現実界のなかに女なるものを置き残すこと」として理解されうる。[Primary repression can …be understood as the leaving behind of The Woman in the Real.]   (PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)

原抑圧の名、それは女なるものの排除である[le nom du refoulement primordial …que cette …la forclusion de la femme](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 26 novembre 2008)

「享楽の排除」、あるいは「享楽の外立」。それは同じ意味である。terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)


原抑圧のタタリ(外立 )[l'ex-sistence de l'Urverdrängt] (Lacan, S22, 08 Avril 1975)

超自我と原抑圧との一致がある[ il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire .] (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)


以上、股の間にバウボを抱えた女なる超自我はタタルのである。この認識に至るのが真の精神の上流階級である。ーー《生命であふれた、桃色の、毛むくじゃらの、いやらしい蛸 [velues et roses, pleines de vie comme une pieuvre répugnante]。…「ほらね。あたしは神よ…[Tu vois, dit-elle, je suis DIEU...]」》(バタイユ『マダム・エドワルダ Madame Edwarda』1937年)


タコのタタリの別名は「しゞま」の「ほ」である。


神のタタリ[l'ex-sistence de Dieu] (Lacan, S22, 08 Avril 1975)

後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。〔・・・〕たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。〔・・・〕たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)







かくの如く私は聞いた。ある時、ブッダは一切如来の身語心の心髄である金剛妃たちの女陰に住しておられた[eva mayā śrutam / ekasmin samaye bhagavān sarvatathāgatakāyavākcittahdayavajrayoidbhageu vijahāra ](『秘密集会タントラ』Guhyasamāja tantra


以上、シツレイしました。現在の世界には精神の中流階級以外は稀有であることは充分に存じ上げています。