前回記したことの是非は、出産外傷を認めるか否かがひとつの分れ道だ。ある時期以降のフロイトラカンはそれを受け入れて常に語っているように見える。
ラカンはオットー・ランクとフロイトに従い、不安理論において、出産における原不安としての生得的不安の暗示を認めている[Lacan s'inscrit à la suite de Rank et Freud pour impliquer l'angoisse à la naissance dans la théorie de l'angoisse et là Lacan valide cette implication de l'angoisse natale comme prototype de l'angoisse]. (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 28/04/2004) |
ラカンの「不安セミネール」で展開されたこと、それはまた、フロイトの『制止、症状、不安』においてまとめられた不安理論、『出産外傷』におけるオットー・ランクの貢献としての不安理論を支持している[que c'est développé dans le Séminaire de l'Angoisse,… prend aussi en charge, …la théorie freudienne de l'angoisse qui intègre dans Inhibition, symptôme, angoisse l'apport d'Otto Rank sur le traumatisme de la naissance. ](J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne- 12/05/2004、摘要) |
ジャック=アラン・ミレールは三週間の講義のあいだで慎重にこう語っている。つまりラカンにダイレクトに出産外傷を肯定している発言はない。とはいえその痕跡はふんだんにある。
私がとくに注目したいのは、斜線を引かれていない「原主体=享楽の主体」を図にて示していることだ。
この原主体は母胎内の主体として捉えうる。つまり次の線が出産外傷だとしうる。
しかもラカンは前年のセミネールⅨで次のように語っているのである。
原初に何かが起こったのである、それがトラウマの神秘の全てである。すなわち、かつてAの形態[ la forme A]を取った何かを生み出させようとして、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させようとしてとして。 Que c'est parce que quelque chose à l'origine s'est passé, qui est tout le mystère du trauma, à savoir : qu'une fois il s'est produit quelque chose qui a pris dès lors la forme A, que dans la répétition le comportement, si complexe, engagé, …n'est là que pour faire ressurgir ce signe A. (Lacan, S9, 20 Décembre 1961) |
||||||||
上のセミネールⅩのAとともに読めば、母胎回帰を語っているとしか捉えようがない。 あるいはこうもある。
|
つまりは母胎回帰という死の欲動と読める。 |
あるいはーー、 |
享楽の対象としてのモノ…それは快原理の彼岸の水準にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…Au-delà du principe du plaisir …cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要) |
例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. ](Lacan, S11, 20 Mai 1964) |
こうして時期の異なる発言を組み合わせれば、よりいっそう出産外傷の肯定が明瞭になる。
フロイトはより直接的にオットー・ランクの出産外傷を肯定している。
不安は対象を喪った反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる[Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts…daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand.](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
オットー・ランクは『出産外傷[Das Trauma der Geburt]』にて、出生という行為は、一般に、母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、原抑圧[Urverdrängung]を受けて存続する可能性をともなうと仮定した。これが原トラウマ[Urtrauma]である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要) |
つまり次の用語群は基本的に等置しうる。
そしてこの原トラウマあるいは原固着は回帰すると言っている。
結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年) |
|
ここでオットー・ランク核心的文を掲げよう(この文は、ベケットが『心理学ノート Psychology Notes 』(1934/1935) の最後のページで、そのまま引用している)。
出生の器官としての女性器の機能への不快な固着は、究極的には成人の性的生のすべての神経症的障害の底に横たわっている[Die unlustvolle Fixierung an diese Funktion des weiblichen Genitales als Gebärorgan, liegt letzten Endes noch allen neurotischen Störungen des erwachsenen Sexuallebens zugrunde](オットー・ランク『出産外傷』Otto Rank "Das Trauma der Geburt" 1924年) |
女性器への不快な固着とあるが、フロイトにとって不快は不安であり、トラウマ(寄る辺なさ)である。 |
不快(不安)[ Unlust-(Angst).](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年) |
不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
寄る辺なさ(トラウマ)[Hilflosigkeit (Trauma)](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
したがって、ランクの「女性器への不快な固着」とは「女性器へのトラウマ的固着」Traumatischen Fixierung an die weibliche Genitale となる。これが先程示した「原不安=原トラウマ=母への原固着」に他ならない。 |
・トラウマへの無意識的固着[die unbewußte Fixierung an ein Trauma ] ・トラウマ的固着[traumatischen Fixierung] (フロイト『続精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933 年) |
ラカン的に言えば、不快あるいはトラウマは悦[jouissance]であり、ランクの「女性器への不快な固着」とは「女性器への悦の固着」となる。 |
不快は悦以外の何ものでもない[déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970) |
悦は現実界にある[la jouissance c'est du Réel.](ラカン、S23, 10 Février 1976) |
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
|
フロイトが固着と呼んだものは、悦の固着である[c'est ce que Freud appelait la fixation…c'est une fixation de jouissance.](J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97) |
フロイトは別に次のようにも言っている。
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさと依存性[Hilflosigkeit und Abhängigkeit]ある。人間の子宮内生活 [Die Intrauterinexistenz des Menschen] は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスから自我の分化 [die Differenzierung des Ichs vom Es]が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben] をつぐなってくれる唯一の対象は、きわめて高い価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない愛されたいという要求 [Bedürfnis, geliebt zu werden]を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年) |
|||
「寄る辺なさ」、「喪われた子宮内生活」等々とあるが、先ほど示したように、これはトラウマのことである。 そして宗教をめぐって次のようにある。 |
|||
幼児の寄る辺なさという感情は宗教的感情の起源である[Bis zum Gefühl der kindlichen Hilflosigkeit kann man den Ursprung der religiösen Einstellung](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年) |
|||
ここに、フロイトにとっての神の起源を読むことができる。つまり女性器へのトラウマ的固着、これが神の起源となる。 何はともあれ、ーーベケットやダリやアルトー等による胎内の記憶の主張を「心の記憶」としてはもし否定しようともーー「無意識的な身体の記憶」としては人はみなそれをもっているに相違ないのではないか(参照)。もし人がこの胎内の記憶を受け入れるなら、喪われた母胎が神の原像であるとする観点は十二分に説得的である。
|