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2021年5月5日水曜日

ベケットとダリとアルトーの胎内記憶


私は自分の胎児存在の明瞭な記憶がある。I have a clear memory of my own foetal existence. (サミュエル・ベケット Samuel Beckett  February 1970 interview)

恐らく読者諸君はまだ自分が母親の子宮内の存在だった誕生以前のあの高度に重要な時期については、まったく記憶していないか、ごくあいまいな記憶しかないかのどちらかであろう。しかし、かくいう私は――そう、私はその時期をまるで昨日のことのようにはっきりと覚えているのだ。(サルバドール・ダリ『わが秘められた生涯』足立康 訳 滝口修造 監修)


という話は数年前に遅蒔きながら知ったが、二人は同じ年に死んでいるようだ。


サミュエル・ベケット 1906年4月13日 - 1989年12月22日

サルバドール・ダリ  1904年5月11日 - 1989年1月23日


ふたりともオットー・ランクの『出産外傷』に若い頃にイカれたらしいが、ボクはこういった話を「妄想」と片付けてしまう悪癖がある。


アルトーは二人より十年ほど先に生まれてるんだな。


アントナン・アルトー 1896年9月4日 - 1948年3月4日


アルトーの子宮内の話は、1990年代に『批評空間』で読んで知ったが、こっちのほうはユーモアがあって気に入っている。


私、アントナン・アルトー、1896年9月4日、マルセイユ、植物園通り四番地にどうしようもない、またどうしようもなかった子宮から生まれ出たのです。なぜなら、9カ月の間粘膜で、ウパニシャードがいっているように歯もないのに貪り喰う、輝く粘膜で交接され、マスターベーションされるなどというのは、生まれたなどといえるものではありません。だが私は私自身の力で生まれたのであり、母親から生まれたのではありません。だが大文字の母は私を捉えようと望んでいたのです。


moi Mr Antonin Artaud né le 4 septembre 1896 à Marseille, 4, rue du Jardin des Plantes, d'un utérus où je n'avais que faire et dont je n'ai jamais rien eu à faire même avant, parce que ce n'est pas une façon de naître, que d'être copulé et masturbé pendant 9 mois par la membrane, la membrane brillante qui dévore sans dents comme disent les UPANISHADS, et je sais que j'étais né autrement, de mes œuvres et non d'une mère, mais la MÈRE a voulu me prendre (Antonin Artaud『タマウラマTarahumaras』)




ベケットについてはオットー・ランクなどのメモをベースにした研究があるようだ。




偶然行き当たった論文だが、ベケットの子宮固着(女性器への固着)が主題でなかなかベンキョウになるよ。


Beckett devotes the last pages of his Psychology Notes to Otto Rank's The Trauma of Birth. There is a probable connection between the Unnamable's womb fixation and these notes: 


Common characteristics of all infantile theories, also illustrated in myths & fairy tales, is the denial of the female sex organs, due to repression of birth trauma experienced there. Painful fixation on this function of the female genital as organ of birth lies at the bottom of all neurotic disturbances of adult sex life, psychical impotence as well as feminine frigidity (TCD  MS 10971/8/35).

 (A Genetic Study of Samuel Beckett's Creative Use of His 'Psychology Notes' in The Unnamable, Reza Habibi 2015)



ベケットは終生、暗闇にオメコが蔓延ったんだろうよ。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)




………………


さてボクの偏見に満ちた頭には、子宮内の記憶とは「心的記憶」としてはないが、「身体の記憶」としてはあるというのが受け入れやすい。心的記憶があるなら子宮内の話だけではなく、出産直後の母乳や糞尿のにおいまみれになっていた時期の話をしてほしいが、寡聞にしてあまり聞いたことがない。三島由紀夫の産湯の話ぐらいだ。


バルトの「身体の記憶」の記述は好んで何度も引用してきた。


私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières]、…失われた時の記憶[le souvenir du temps perdu]を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶[le corps et la mémoire]によって、身体の記憶[la mémoire du corps]によって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)


たとえばプルーストは、肢体の無意志的記憶[ une mémoire involontaire des membres]があると言っている。


肢体の無意志的記憶といったものがあるように思われる、それは他の無意志的記憶の、生気のない、不毛な模倣で、あたかも下等なある種の動物や植物が人間よりも長く生きているように、それは生きのこっているのだ。脚や腕は鈍磨した回想に満ちている。il semble qu'il y ait une mémoire involontaire des membres, pâle et stérile imitation de l'autre, qui vive plus longtemps comme certains animaux ou végétaux inintelligents vivent plus longtemps que l'homme. Les jambes, les bras sont pleins de souvenirs engourdis. (プルースト『見出された時』)


そして中井久夫は、胎内の記憶ーー味覚、嗅覚、触覚、圧覚、聴覚ーーがあると書いているが、これは現在の医学ではもはや間違いないらしい。


胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。母が堕胎を考えると胎児の心音が弱くなるというビデオが真実ならば、母子関係の物質的コミュニケーションがあるだろう。味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。


触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口―身体―指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。


聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。


視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」初出2003年『時のしずく』所収)