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2021年5月4日火曜日

「のである」とか「なかろうか」とかの下品さ

 


「のである」とか「なかろうか」とかをツイッターで人が使ってるのを見ると、とっても下品に感じるなあ、ボクも知らぬ間に使ってるときがあるんだが、鳥語装置の囀りで使う人はいまでは稀だから余計下品さが目立つねえ、なんであんなことなっちまうんだろ? ヘッポコ翻訳ばっかり読んでるせいだろうか。それともたんにニブイんだろうか。


日本語の敬語もよく考えると単に丁寧さの程度だけではない。われわれは同じ対象に向って「です、ます」調で講演し、「である」調で文を綴る。


「です、ます」調が講演や会話で選ばれるのは、接続がやさしいからである。実際、「です」「ございます」は、文から独立して、喚起的な間投詞(というのであろうか)として使用されている。「あのですね、実はですね、昨日のことでございますが、あのう、お電話をさしあげたんですがね、いらっしゃいませんでしたですね。それでですね……」。こういう用法は、顔が見えない電話での会話で頻用される。


「である」にこの作用をもたせると、政治演説になる。「のであるんである」は政治家の演説を嘲笑するのに恰好である。しかし、予想外に多くの批評家の文に「のである」の頻用を発見する。「だ」の間投詞的用法は某政治家が愛用して「それでだ、日本はだ、再軍備してだ……」とやっていたが、「突っぱねるような調子」と批評され、不人気の一因となった。


のである」を、私は「ここで一度立ち止まっていままでの立論を振り返れ」というしるしと見る。どうしてもなくてはかなわぬ場合以外に使用すると相手をむやみに立ち止まらせ、相手の頭にこちらの考えを押し込もうとする印象の文になり、品が下る。


「です、ます」調で書かれた文は、相手にそれとなく同調を迫り、相手を自分のペースに巻き込んで、うやむやのうちに同調させようという圧力を持つと私は思う。「です、ます」調の文に対しては批評意識が働かせにくい。京都学派がかつて頻用した「なかろうか」にも同じ傷害を感じる。


日本文の弱点は語尾が単調になることで、語尾を豊かにしようと誰も苦心するはずだ。動詞で終ることを多くする。体言止めにする。時に倒置法を使う。いずれもわるくない工夫である。


接続が日本語において重要であることは、従来から意識されてきた。西鶴の若い時の文体や野坂昭如の文体においては、文の独立性を不明瞭にすることによって、柔軟な接続に成功している。一方、晩年の西鶴やそれを模した志賀直哉の文体、あるいは谷崎の文章読本に説くような、極度の接続詞の節約は一見反対のように見えて同じことの裏の面である。接続詞抜きでよい接続をすることが高い美学的価値を生む芸当であるのだ。もっとも接続詞の極端な禁欲は、文章を点描法の画に近づけ、一般に随筆的な文章とする。メリハリのためには、多少の接続詞が必要である。また、主語の明示をにくむこと、親のかたきのごとくであるのも、狭量であると私は思う。しかし、「で」で続くたるんだ接続をよしとするわけではけっしてない。これはジャーナリストの文章に多くを見る。……(中井久夫「日本語を書く」初出1985年『記憶の肖像』所収)