女というものは、たとえどんな醜女に生れついても、まったく自惚れを持たないことはない。あるいは自分の年頃から、あるいは自分の笑い方から、あるいは自分の挙動から、何かの自惚れをもたずにはいないのである。まったく、何もかも美しい女がいないように、何もかも醜い女もいない。il n'y a guère de femme, si disgraciée soit-elle, qui ne pense être digne d'être aimée, qui ne se fasse remarquer par son âge, ou par sa chevelure , ou par sa démarche, car des femmes absolument laides, il n'y en a pas plus que d'absolument belles. (モンテーニュ『エセー』第3部第3章16節) |
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女の驚きのことばは クレオパトラが酒をつぎながら ほめられた時に使う反射だ 「あらどうしましよう」 |
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最初の男の愛の誓いに、ころりと参らぬ女は一人もない。ところで、今日のように、男たちの裏切りが普通で当たり前になると、すでにわれわれが経験で知っているようなことが必然的に起こってくる。すなわち女たちは、独り独りでも、相結束してでも、そろって我々を回避するようになった。あるいはまた、彼女たちの方でも我々が教えた実例にならって同じ狂言に参加し、熱情なく、真心なく、愛なく、この取引に応ずるようになった。 《熱愛せらるることなければ、熱愛することもまたなくなりぬ》(タキトゥス)。 |
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つまりプラトンにおけるリュシアスが教えるところに従って、女たちは、男たちが自分たちを愛することが少なければ、それだけ利益のために、ご都合のために、この身を委せてもよい[qu'elles peuvent d'autant plus utilement et facilement s'abandonner à nous que moins nous les aimons]と考えるわけである。(モンテーニュ『エセー』第3部第3章17節) |
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イボタの繁みから女のせせら笑いが きこえてくる。
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