前回の「不気味なデーモン女の回帰」から引き続くが、たとえばシューベルトの『冬の旅』の冒頭はこうだ。 |
異者として私はやって来て 異者として去ってゆく Fremd bin ich eingezogen, Fremd zieh' ich wieder aus, |
前回のエキスを繰り返そう、 《ひとりの女は異者である[une femme …c'est une étrangeté. ]》(Lacan, S25, 11 Avril 1978)、そして、《異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] 》(Lacan, S22, 19 Novembre 1974)だ。 要するに不気味な異者がニーチェの次の文に相当するならーー《不気味なものは人間の実在「 Dasein]であり、それは意味もたず黙っている[Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn ]》(ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第1部「序説」1883年)、女が歌ったほうがいいんじゃないかね、少なくともこの曲は・・・(蚊居肢子の使用する三点リーダーは深い深い意味があるのをご存知だろうか)。 名歌唱で誉れ高いハンス・ホッター(Hans Hotter)でもフィッシャー=ディースカウ(Fischer-Dieskau)でも、通してきくにはボクは退屈しちまうな。 |
女の声だったらいける。ボクはバーバラ・ヘンドリックス(Barbara Hendricks)の偏愛者で、女の声の"Gute Nacht"も彼女のもので初めてきいたんだが、とはいえ真にすごいのは、1883年生まれのエレナ・ゲルハルト(Elena Gerhardt)と1888年生まれのロッテ・レーマン(Lotte Lehmann)だ。19世紀の不気味なにおいがふんだんにする。 でも最近の人でも「女だったら」強く訴えかける歌い手がいるね。 |
"Gute Nacht"; WINTERREISE; Franz Schubert |
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Barbara Hendricks |
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Elena Gerhardt |
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Lotte Lehmann |
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Lotte Lehmann 全曲 |
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Nathalie Stutzmann |
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Joyce DiDonato |
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Brigitte Fassbaender |
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Emőke Baráth |
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Naira Asriyan |
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Lieselot De Wilde |
ーーナタリー・シュトゥッツマン(Nathalie Stutzmann)のバッハは今までなぜか毛嫌いしていてまともにきいていないのだが、ちゃんときいてみないといけないな。ほとんど知られていないNaira Asriyanの声だって痺れちゃうよ。いつか遠いむかしにきいた声と似てるのかも・・・
何はともあれやっぱり母胎を響かせて歌わないとな、 |
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昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた(あるいはおそらくそう感じていた)。子どもは小さな死を、おとなは大きな死を自らのなかにひめていた。女は死を胎内に、男は胸内にもっていた。誰もが死を宿していた。それが彼らに特有の尊厳と静謐な品位を与えた。 Früher wußte man (oder vielleicht man ahnte es), daß man den Tod in sich hatte wie die Frucht den Kern. Die Kinder hatten einen kleinen in sich und die Erwachsenen einen großen. Die Frauen hatten ihn im Schooß und die Männer in der Brust. Den hatte man, und das gab einem eine eigentümliche Würde und einen stillen Stolz.(リルケ『マルテの手記』1910年) |
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胸で歌ってもダメさ、トーマス・クヴァストホフ(Thomas Quasthoff)のように脳髄を徹底的に響かせている男もいてかなりいけるが、やっぱり真の女が胎盤を響かせて歌っているのには到底かなわないね、とくに『冬の旅』は、私という異者 [Fremd bin ich]の歌なんだから。
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要するに「モノ=異者=不気味なもの=エス」だ。そしてエスの原像は喪われた母胎だ、それ以外ない。で、最初の歌ってのは人はみな母胎のなかできいたのさ、ボクなんかヨク覚エテルケドナ、吉岡実曰くの《水べを渉る鷭の声に変化した女の声》を。
永遠回帰するね、あの歌は。ーー《実存(不気味なもの)の永遠の砂時計 [Die ewige Sanduhr des Daseins]はくりかえしくりかえし回転する[Die ewige Sanduhr des Daseins wird immer wieder umgedreht]》(ニーチェ『悦ばしき知』341番、1882年)
異郷にあった己は永遠回帰するのさ
ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。 Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle. (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと Der Wanderer」1884年) |
この異郷にあった己[mein eigen Selbst… in der Fremde]が、フロイト曰くの異者身体[Fremdkörper]=内界にある自我の異郷部分[das ichfremde Stück der Innenwelt ]だ。 で、究極の喪われた異郷は母胎もしくは母胎のなかの己に決まってる。 |
子供はもともと母、母の身体に住んでいた。〔・・・〕子供は、母の身体に関して、異者としての身体、寄生体、子宮のなかの、羊膜によって覆われた身体である。 l'enfant originellement habite la mère pose tout le problème du caractère des rapports de l'œuf avec le corps de la mère […] il est, par rapport au corps de la mère, corps étranger, parasite, corps incrusté par les racines villeuses de son chorion dans … l'utérus (Lacan, S10, 23 Janvier 1963) |
ま、もっとも居心地の悪かった人もいるだろうからな、その人たちはアノ永遠回帰に不感症なのかもね。 |
女の子宮のなかで子供は寄生体である。すべてがそれを示している、この寄生体と母胎とのあいだの関係はひどく悪くなりうるという次の事実も含めて[Dans l'utérus de la femme, l'enfant est parasite, et tout l'indique, jusques et y compris le fait que ça peut aller très mal entre ce parasite et ce ventre. 」(Lacan, S24, 16 Novembre 1976) |
オッカサマはでっかい胎盤してたほうがいいんだろうな、女性歌手だって何よりもまずそれで判断すべきかもね。 |