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2021年12月14日火曜日

身体自我[Körper-Ich]と身体エス[Körper-Es]

 フロイトは、自我は身体自我[Körper-Ich]だと言っている。


自我は何よりもまず身体的自我である[Das Ich ist vor allem ein körperliches]〔・・・〕意識的自我は何よりもまず身体自我である[bewußten Ich ausgesagt haben, es sei vor allem ein Körper-Ich. ](フロイト『自我とエス』第2章、1923年)



そしてこの身体自我とは別の身体を異者としての身体 [Fremdkörper] と呼んでいる。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物(異者としての身体 [Fremdkörper] )のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt ](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異物(異者としての身体 [Fremdkörper])の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



したがって自我とエスというのは基本的に、身体自我[Körper-Ich]と異者身体[Fremdkörper] ということになる。






異者身体[Fremdkörper] 事実上、身体エス[Körper-Es]と呼んでもよい。




この区分はラカン用語、とくに後期ラカン用語を理解する上で決定的である。


上辺の身体自我[Körper-Ich]とはラカン派語彙で言えば、ファルス化された身体[corps phallicisé]ーーつまり言語化された身体だ。


ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない[Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.]  (ラカン, S18, 09 Juin 1971)



下辺の異者身体[Fremdkörper]は、穴の身体(フロイトの定義における「トラウマの身体」)であり、享楽の身体[corps de la jouissance]、欲動の身体[corps de la pulsion]である。


われわれにとって異者としての身体[un corps qui nous est étranger](ラカン, S23, 11 Mai 1976)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel …  fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou.](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)

現実界のなかの異者概念(異者身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)




後期ラカンはこの異者身体を「ひとりの女」、あるいは「他の身体」ーーファルス化された身体とは別のリアルな身体ーーと呼んだのである。


ひとりの女は異者である[une femme …c'est une étrangeté.  ](Lacan, S25, 11  Avril  1978)

ひとりの女は他の身体の症状である[une femme est symptôme d'un autre corps,](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 1975)



ここにある「ひとりの女」とは厳密に、上に引用したフロイト『制止、症状、不安』におけるエスの欲動蠢動「Triebregung des Es 」=異者身体の症状[das Symptom als einen Fremdkörper]である。


このひとりの女を男女両性ともにある「女性性」と呼んでも好い。





したがってセミネールⅩⅩ「アンコール」の女性の享楽とは異なり、後期ラカンの女性の享楽とは異者身体の享楽[la jouissance du corps étranger]、身体エス[Körper-Es]のことであり、これが享楽自体だ。



確かにラカンは第一期に、女性の享楽[jouissance féminine]の特性を、男性の享楽[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。


だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)