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2021年12月23日木曜日

エスの軽侮というおバカ心理学

 自我も大事だよ、エスとどっちが大事かってだけで。とはいえ巷間の(エスを忘れた)自我心理学ってのはボクの言い方なら「おバカ心理学」だな。

で、欲望/享楽(欲動)という区分は、基本的には、自我/エスってことだよ。


エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年)

欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance].(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)




何よりもまず次の文が扇のカナメだ。


欲望は大他者に由来する、そして享楽はモノの側にある[le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose](Lacan, E853, 1964年)


以下、注釈列挙。


まず上部。


◼️欲望=大他者=自我=言語=象徴界

フロイトの自我と快原理、そしてラカンの大他者のあいだには結びつきがある[il y a une connexion entre le moi freudien, le principe du plaisir et le grand Autre lacanien] (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 17/12/97)

大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


同じことだが、これも付け加えておこうか。


欲望は法(言語の法)に従属している[désir …soit soumis à la Loi ](Lacan, E852, 1964年)

欲望は言語に結びついている[le désir tient au langage]  (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)



次は底部。


◼️享楽=モノ=エス=身体=現実界

忘れてはならない。フロイトによるエスの用語の発明を。(自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。〔・・・〕私はこのエスの確かな参照領域をモノ la Chose と呼んでいる。[N'oublions pas …à FREUD en formant le terme de das Es.  Cette primauté du Es  est actuellement tout à fait oubliée.  … j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose.] (ラカン, S7, 03  Février  1960)

フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)


以上、次の通り。




「身体」というとき注意しなくてはならないのは、リアルな身体(享楽の身体=欲動の身体=リビドーの身体)とイマジネールな身体(あるいはファルス化された身体)の区別。イマジネールな身体は鏡に映る身体、身体のイメージであり、自我に属する。


想像界は象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire … structuré cette fonction symbolique](ラカン, S2, 29 Juin 1955、摘要)





以上、要するに自我はエスに対する防衛=抑圧だ。言語で身体を抑圧するということだ。



欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である[le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance].( ラカン、E825、1960)

私は(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念のかわりに、後年、「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926 年)



とはいえ欲望といっても常に欲動の残滓(享楽の残滓)がある。


我々がモノと呼ぶものは残滓である[Was wir Dinge mennen, sind Reste,](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  ](Lacan, 21 Novembre  1962)

享楽は残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963)



別の言い方なら、欲動の抑圧(あるいは排除)などというものは人はできはしない。必ず回帰がある。



抑圧されたものの回帰と抑圧は同じものということには驚かないでしょうね? [Cela ne vous étonne pas, …, que le retour du refoulé et le refoulement soient la même chose ? ](Lacan, S1, 19 Mai 1954)

ラカンは欲動的対象との関係[le rapport à l'objet pulsionnel ]において「抑圧されたもの」のモデルを考えようとした。これが次の凝縮された叙述が意味していることである。《このページは忘れられている。だが行為として呼び戻される[cette page est oubliée mais elle se rappelle dans les actes ]》。これが意味するのは、抑圧されたものの回帰は欲動的享楽に関係する[le retour du refoulé dans le rapport à la jouissance pulsionnelle]いうことである。(J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 3/02/99)


フロイトにおいて最初期から、抑圧とは欲動の翻訳の失敗(言語化の失敗)という意味をもっている、ーー《翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである[Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.]》(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ vom 6.12.1896)



肉体を仮に軽侮したって、勝手に蠢くもんだーー《エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität]》 (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる智なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである。["Ich" sagst du und bist stolz auf diess Wort. Aber das Grössere ist, woran du nicht glauben willst, - dein Leib und seine grosse Vernunft: die sagt nicht Ich, aber thut Ich. ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)




このニーチェのフロイト版が次のものだ。



人は、忘れられたものや抑圧されたもの[Vergessenen und Verdrängten]を「思い出す erinnern」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわす agieren」。人はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん自分がそれを反復していることを知らずに(行為として)反復している[ohne natürlich zu wissen, daß er es wiederholt]。(フロイト『想起、反復、徹底操作』1914年)




ラカン版なら次の通り。


私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ](Lacan, S20. 15 Mai 1973)

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973)




というわけで、ーー《いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる[nun redet es, nun hört es sich]…おまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが? [hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht?]》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)